村の道

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人の生活するところ道はかならずある。桃李(とうり)やりんごの木の下に、おのずから小道ができたように、人の生活上の必要が村の道を成立させた。


写真1 「右 ざいごうみち、左 戸隠山并(ならびに)きなさ道」の道標 文化十二年(1815)六月の年次もみられる

 道は本郷と枝村、村と村などの集落に住む人びとを相互に結びつけていた。さらに、村から領主の城下や代官所へ通じる行政的な道があった。これらの道は通常つぎのようによばれている。

①ムラ道 集落内の家と家のあいだを走る道であり、本家から分家への道が新たに形成されることもあった。また、用水路へ水汲みや洗いものに通う道などもある。集落内で井戸をもっている家があると、その井戸を使わせてもらう井戸連が通う道も自然に形成された。これらの道の多くは屋敷境や畑の境を走っていた。屋敷から大道へ出入りする道は「ケダシ」とよばれた。

②作場道(さくばみち) 集落から野良(のら)に通じる道で、畦道(あぜみち)などを通路とした。現代でいう農道である。

③堰道(せぎみち) 堰とよばれた用水路に沿った道で、水路の管理、見回りや泥あげのための道である。

④山道 集落から薪(たきぎ)や草をとる山へ向かう道、ときには奥山や峠を越して他郷へつながる道である。入会山(いりあいやま)への道は「山の口明け」といって特定の解禁された期間だけ通行を許され、それ以外の時期の通行・入山は禁止されていた。

⑤大道(おおみち) 往還ともいい、村と村を結び、町や市場(いちば)などさらに遠いところへの道である。古い屋敷地を捨て大道沿いに移転し、街村を形成した例も多い。

 近世前期の一七世紀中ごろには、各地に新田が開かれた。新田への通路は主に田の畦道や堰道によっていた。新田の一角には新田百姓の集落が形成され、親村(おやむら)(本郷)との通路は用水路の泥あげ場が日常的な道となった例が多い。それらの道は現代では、水路をコンクリートでおおって道幅を広げているところが多く見うけられる。絵地図を開くと、水内郡中御所(なかごしょ)村(中御所)・市(いち)村(芹田)などでは、水路に沿って村中の道が走り、ところどころに水路を横ぎる連絡路がみられる。同郡三輪(みわ)村(三輪)では条里遺構のため耕地の畦道が整然と直角に交わっている様が顕著で、しかも水路に沿った道も通じている(『長野県町村絵地図大鑑』北信篇)。

 村内の道路整備について、各村の差出帳や明細帳は道掃除のことを記し、村内の道は各人の家の前を掃除しているとしている。とくに巡見使(じゅんけんし)など公儀(こうぎ)役人の通行のさいや大名行列の通過時には、道の両端から中央にかまぼこ型に土をかきあげて整地し、その上に砂を敷いている。このような配慮によって、日常的にも道路の修繕などがおこなわれた。

 小集落内の道普請は、毎年春に村中の家から寄り合い、用水路の泥あげや草刈りと同じようにおこなわれる。集落内の道から作場道や山道の一部も共同作業による補修の対象となる。古来、百姓は道・橋・用水路・悪水(排水)路のことを心掛けの第一にすべしと説かれてきた。その伝統は現在でもつづいているが、農道までも舗装された現代では、主に下水路の清掃だけという例が多くなった。

 江戸時代の村役人の心得として、「古い道をつぶし、私に新道を付けることは、享保(きょうほう)七年(一七二二)に禁止されている。しかし、耕作や生活上の便利のために新道を作る必要があるときは、願いでて指図を受けてからおこなえ」とある(『地方凡例録(じかたはんれいろく)』)。年貢地を減らさないような配慮をしたうえで新道の付け替えなどがおこなわれたのである。家と家との行き来の変化、田畑中への新道開削(かいさく)、道幅の切りひろげの必要など、時代とともに変化する村の生活に合うように道は改善されたが、それには公の許可を得る手続きが必要であった。