渡し場

791 ~ 793

犀川・千曲川のほとりの村々は、河川敷に耕地をもって生活していた。しかし、たびたびの洪水のつどに流路が変わり、耕地が川向こうとなった例も多い。大河川には橋のなかった時代なので、村から耕地への往復、村から川向こうの村への往復は、渡し舟に頼らざるをえなかった。

 松代領内には、「七渡(ななわた)し」とよばれた公的な渡し場があった。千曲川筋では、矢代(更埴市)・赤坂(あかさか)(篠ノ井東福寺)・寺尾(松代町)・関崎(若穂)・布野(ふの)(柳原)の五ヵ所、犀川筋では小市(こいち)(安茂里)と市村(芹田)の二ヵ所、合わせて七ヵ所である。矢代と市村は北国往還善光寺通りの渡しで、大名や公儀役人が通ると松代藩はこの両渡しに家臣を派遣して接待にあたらせた(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。布野は北国往還松代通りの渡し場である。

 宝暦十三年(一七六三)、千曲川沿いの更級郡塩崎(しおざき)村(篠ノ井)が負担していた舟賃はつぎのとおりであった(『塩崎村史』)。

志川(しがわ)(更埴市)舟賃は、村から杭瀬下(くいせげ)村(更埴市)へ大麦七俵を毎年出す。これは上田城下や川向こうの親類縁者へ行くためのもの。

小市舟賃は、出水(市村舟留め)のときの善光寺市場への渡し場確保のため、小市村へ村から大麦三俵を出す。

裾花(すそばな)川舟賃も、出水のとき善光寺市場へ行くため、久保寺(くぼでら)村(安茂里)へ村から銭二〇〇文を出す。

市村舟賃は、善光寺市場へ行くため、村から大麦一一俵を市村へ出す。

寺尾舟賃は、松代市場へ行くため、大麦一俵を寺尾村へ出している。

矢代舟賃は、北国往還の公用の渡し場だが、矢代村から家別に大麦一升から二升、三升、五升、一斗と集めにくる。

赤坂舟賃は、松代への渡しで、赤坂村から家別に大麦一升から五升ほどを集めにくる。

 右のように、渡し場は生活物資購入や生産物の販売などで上田・松代・善光寺などの市場へ通う要所となっている。塩崎村は、「耕作のあいだに善光寺・松代・稲荷山(更埴市)・上田・小諸(小諸市)・新町(しんまち)(信州新町)へ穀物を売りに行く」と書きあげている。渡し賃は地元の村々は無賃であった。そのかわり村入用などでまとめて関係の村へ運営負担金として、銭または米・麦によって支払った。更級郡中氷鉋(なかひがの)村(更北稲里町)の場合、享保四年(一七一九)には、渡し舟賃として矢代・赤坂・寺尾・柴(しば)(松代町)・関崎・市村・小市・裾花(久保寺村ヵ)へ年につなぎ籾(もみ)二二俵余を出している。また、犀川沿いの水内郡栗田村(芹田)の天保(てんぽう)五年(一八三四)の村入用夫銭(ぶせん)のなかに、銭一一貫文を市村・裾花川・小市・矢代・寺尾・大豆島(まめじま)(大豆島)・布野の各渡し場へ出していることが記録されている。渡し場利用賃を、村として渡し場を管理する村へ一括して麦などで払う例と、全戸からまんべんなく徴収される場合とがある。これらの違いは、古来の慣行や村人の利用頻度(ひんど)などによるものであろう。

 松代領には七渡しのほかに「野渡し」といわれた作場への渡し場があった。主な野渡しには、千曲川筋に網掛(あみかけ)(坂城町)、力石(ちからいし)(上山田町)、若宮・千本柳(せんぼんやなぎ)(戸倉町)、向八幡(むこうやわた)・杭瀬下(更埴市)、岩野(松代町)、中沢(篠ノ井東福寺)、牧島(松代町)牛島(うしじま)(若穂)など、犀川筋に日名(ひな)・下市場(しもいちば)(信州新町)、大豆島などがあった。天保十年中氷鉋村の船賃籾書上帳には「籾一俵程 牧島 これは薪物取りにまいり候者一軒につき籾二升ずつ年々により」とあり、塩崎村でも「松代馬喰(ばくろう)町作場舟賃大麦二斗五升」を出していた。これらは野渡しの場合である。

 明治初期の村絵図を見ると、更級郡東福寺村(篠ノ井)には耕地が千曲川で二分されたところに渡し場があり、高井郡綿内村(若穂)では同郡福島(ふくじま)新田(朝陽北屋島)をへて水内郡長池村(朝陽)への渡し場、更級郡西寺尾村(篠ノ井)では、向島と西河原を結ぶ渡し場、小島田(おしまだ)村(更北小島田町)にも二ヵ所の渡し場が見える。明治初期の絵図には船橋となっているが、それ以前には渡し場であったものである(『長野県町村絵図大鑑』北信篇)。このほか、長沼地区では千曲川をはさんで高井郡相之島(あいのしま)村(須坂市)とのあいだに渡し舟場があり、善光寺方面から須坂地方への主要な渡し場のひとつであった。渡し場は川の流れ方によってたびたび変更された。たとえば安政三年(一八五六)綿内村は、川の流れが変わったため渡し場を移転したとき、千曲川対岸の下牛島の耕地内に善光寺への道筋を確保するよう更級郡牛島村へ頼みこんでいる。