北国往還の役割の重要なひとつとして、参勤交代(さんきんこうたい)にともなう加賀(かが)(石川県)・越中(えっちゅう)(富山県)・越後(えちご)(新潟県)・信濃の大名行列の円滑な通行を確保する使命があった。参勤交代の制度は、幕府が寛永十二年(一六三五)から外様大名(とざまだいみょう)に、同十九年からは譜代(ふだい)大名にも課した軍役(ぐんやく)のひとつである。原則として、隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に滞在して将軍の統率下に入る制度である。この制度は諸大名にばく大な出費を強い、街道沿線の住民や宿場にも大きな負担であったが、いっぽう、大名行列の通行によって街道が整備され、駄賃稼ぎなどで住民にうるおいをもたらした恩恵も大きかった。
大名行列は、もともと臨戦体制の行軍形式であったが、時代とともに形式化した。幕府は元和(げんな)元年(一六一五)に行列規模の基準を定め、その後も街道の混雑を避けることを主目的に何度か従者の数を制限するように命じた。正徳(しょうとく)二年(一七一二)、享保六年(一七二一)にも諸大名の財政難を防ぐために参勤のさいの従者を減らさせた。二〇万石以上で、馬上一五~二〇騎、足軽(あしがる)一二〇人、中間(ちゅうげん)人足二五〇~三〇〇人、総勢四〇〇人前後、一〇万石では約二五〇人、一万石では五〇人前後をいちおうの基準とした。しかし、じっさいは一万石の大名行列で一五〇~三〇〇人がふつうであったという。もっとも、中間などには臨時雇いが増す。このほかに、荷物を運ぶ宿駅の人馬も行列の前かあとをすすむので、大きな行列となり、加賀一〇〇万石の行列は二五〇〇人にも達した。
参勤交代の主経路を北国往還としていた大名は、加賀金沢(金沢市)一〇〇万石の前田氏、越中富山一〇万石の前田氏、加賀大聖寺(だいしょうじ)(加賀市)七~一〇万石の前田氏、越後高田(上越市)一五万石の松平氏・榊原(さかきばら)氏などであった。地元信濃では、江戸後期の領知高でみると、松代藩(一〇万石)・飯山藩(二万石)・須坂藩(一万石)・上田藩(五万石)・小諸藩(一万五〇〇〇石)が北国往還を利用した。このほか、臨時に北国往還を通行する大名行列もあった。越後長岡(長岡市)藩(七万石)、同新発田(しばた)(新発田市)藩(五万石)、越前(福井県)勝山(勝山市)藩(二万石)、同大野(大野市)藩(四万石)も一八世紀はじめまでに、一、二度ずつ通行している。柏原宿(信濃町)の調査では、元禄十年(一六九七)以降の一〇年間に年平均三・五組の大名行列が通過している。
北国往還を通った大名行列のうち最大規模の加賀一〇〇万石の行列についてみよう(写真2)。加賀歴代藩主の参勤交代の大名行列は、判明している範囲で江戸への参勤が九三回、金沢への帰国が九七回、計一九〇回であった。そのうち越後・信濃を通る北国往還を利用したのは一八一回(九五パーセント)であった。加賀藩では善光寺通りの道筋を「北国下街道」とよんでいた。
金沢・江戸間約一二〇里(約四七〇キロメートル)の所要日数は、一二泊一三日が全体の約三分の一で一番多く、もっとも速かったのは一〇泊一一日である。一日の行程は約一〇里(約四〇キロメートル)をこえるのがふつうであった。藩主の宿泊地は固定化しており、金沢を出て七日目に高田から一二里三四町を歩き牟礼宿に泊まる。八日目は牟礼から善光寺宿を通りすぎ、一〇里一八町を急いで坂木宿(坂城町)に泊まる。一日の行程全部を隊伍を整え「下に下に」とすすむわけではなく、長野市の近くでは、野尻・柏原・牟礼・善光寺・矢代の各宿場だけ隊伍を組んで「行列をたて」るのがふつうで、新町宿や丹波島宿はひたすら先を急いで通過する。このような長道中であったから日暮れの六ッ時(午後六時)ごろ宿に入り、早朝七ッ時(午前四時)ごろ出発する「暮れ六つ泊まりの七つだち」の旅程であった。
享保十五年九月一日に加賀藩主が参勤の途上善光寺宿で宿泊した例があるが、これは洪水のためやむをえず逗留(とうりゅう)し、三日に出立したものである。全国から参詣人の絶えない善光寺宿に大名行列がやむをえず泊まるときは、「諸国の商人もいりこんでいるから、御供人は旅宿のほか外出いたすまじく候」という禁足令が出ていたという。加賀藩の行列人数は、幕末になっても二四〇〇人を下まわることはない大きな行列であったから、家臣・従者・人足などの多くは藩主宿泊地前後の各宿場に分宿していたわけである。
加賀藩の大名行列には宿駅に人足一〇〇人ぐらい以上、馬二五〇匹以上を割りあててきた。そのため近郷へ手配して人馬を用意した。享保九年七月、善光寺宿を加賀藩が通行するにさいして、二ヵ月前に先触れがあり、人足五、六百人、馬二五〇匹を善光寺宿と新町宿・丹波島宿の三宿が協力して間に合わせている。また、享保十二年三月の通行には、定めの二五人・二五匹のほかに、人足一〇〇人・馬二五〇匹を要求され、丹波島宿と善光寺宿で折半して用意した。
加賀藩は宝永七年(一七一〇)ころから、越後市振(いちぶり)(新潟県青海(おうみ)町)から新町宿までのあいだは、通し人馬で通行した。金沢の専門業者に道中の運送を請け負わせ、業者は各宿場の有力者に下請けさせていた。この場合宿場は、定めの二五人・二五匹の人馬を用意するだけでよかった。享和(きょうわ)三年(一八〇三)の通し人足の賃銭は人足二貫九〇〇文、馬六貫五〇〇文であった。江戸から金沢へ帰国するさいは、牟礼宿から越中境までが通し人足であった(『若槻史』)。
富山藩は、ほぼ一四泊一五日の日程で信越をへて参勤した。大聖寺藩も、総勢約二七〇人で越中をへて信越回りで一三一里(約五一五キロメートル)の行程をほぼ一四日かけていた。