佐渡金銀の通行

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北国往還は、北陸道と中山道とを連絡しており、江戸時代をとおして主要な公的役割のひとつは、佐渡の金銀を江戸へ安全に運送することであった。北国往還の整備は、佐渡奉行でもあった大久保長安(ながやす)が采配をふるい、佐渡金山からの金銀輪送の重要性からも長安によって促進された。佐渡から江戸へ金銀を輸送できる道のなかで、もっとも安全と考えられた北国往還の整備は急務であったはずである。

 佐渡には、一〇ヵ所以上の金・銀・鉛鉱山があったが、江戸時代に佐渡金山といえば相川(あいかわ)(新潟県佐渡郡相川町)の金銀山を意味した。慶長八年(一六〇三)、大久保長安が佐渡奉行となり、戦国時代以来の経営を改革して金銀の産出量を増加させた。江戸初期の寛永十年(一六三三)前後の鎖国までが、佐渡の産金量が最高の時期であった。最盛期の元和七年(一六二一)の銀運上は六〇〇〇貫を上回ったが、寛文(かんぶん)期(一六六一~七三)には一〇〇〇貫を切り、その後、佐渡の鉱山は沈滞し幕末には疲弊その極に達した。

 佐渡の金銀は、船で寺泊(てらどまり)(新潟県三島(さんとう)郡寺泊町)か出雲崎(いずもざき)(同郡出雲崎町)に着き、そこから三つの経路を使って江戸へ送られることになっていた。①は会津若松(あいづわかまつ)(福島県会津若松市)から白河(しらかわ)(同県白河市)・宇都宮(栃木県宇都宮市)を通る道、②は長岡(新潟県長岡市)から三国(みくに)峠を越え、高崎(群馬県高崎市)で中山道と合する道、③は高田(上越市)をへて善光寺を通る北国往還である。①・②の道も戦国時代から利用されていたが、①は距離が長く、難所も多い。②は江戸への最短距離ではあったが険阻な峠越えや人家のない長い区間などがあり、「御金(おかね)荷物」の通行には不適当であった。佐渡の金荷物輸送のために三国峠を利用したのは、高田大地震のあった宝暦元年(一七五一)だけだったという。佐渡の御金荷物の運送には、善光寺宿を通る③の北国往還がもっぱら利用される結果となった。

 水内郡柏原宿(信濃町)の宝永八年(一七一一)の記録では、佐渡の運上金銀は、春秋の二度、宿継ぎで一度に馬六〇匹ぐらいずつ送られている。野尻宿(信濃町)や牟礼宿(牟礼村)には佐渡運上金銀専用の蔵があり、そのつど御金荷物として厳重に保管された。善光寺宿では善光寺本堂に保管され、宿場役人は人足を出し、夜番して守った。北国往還を通った御金荷物は、元禄十五年(一七〇二)に四八個、宝永六年五〇個、享保十年(一七二五)三二個、天保十一年(一八四〇)一八個、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)九個というように、産金量の減少にともなってしだいに少なくなっていった。

 幕府は、安永七年(一七七八)四月三日、佐渡鉱山経営の経費節約のため江戸の無宿者(むしゅくもの)を佐渡の鉱山へ送りこむことをきめた。その年の七月八日には、江戸から佐渡へ送られる無宿者の目籠(めかご)六〇挺(ちょう)が北国往還の松代通りを通過した。囚人や無宿者の佐渡送り御用は無賃で、宿場にとって迷惑な仕事であった。ただし、佐渡送りは会津道・三国道・北国街道の三筋を毎年交互に通行した。北国往還の通過は、安永七年を最初として嘉永(かえい)四年(一八五一)までの約七〇年間に三三回が記録されている。善光寺宿の問屋小野家文書(『県史』⑦二〇一五)には、天保九年閏(うるう)四月四日、佐渡から送られた囚人八人の預かり一札がある。それによると「今晩当宿でたしかに預かりましたからには、不寝番をつけ、役人もときどき見まわって大切にします。万一取り逃したときは、早速尋ねだします」と問屋善兵衛と年寄八郎次が役人へ差しだしている(写真3)。


写真3 天保9年(1838)閏4月の佐州御差立囚人預かり証文 (県立歴史館蔵)

 このほか佐渡奉行が北国往還を通って江戸とのあいだを往復することも多かった。松代通りを通った記録があるのは、安永元年八月二十八日、文政三年(一八二〇)五月二十四日などである。また、佐渡奉行と江戸との連絡の「御書箱」も宿継ぎで、しかも無賃で毎月のように通った。文政五年の四月から八月にかけては、佐渡でなにかの事件がおこったのか、江戸と佐渡を往復する書状箱が松代道をひんぱんに通った(『豊野町の歴史』)。ほかにも北国往還にはさまざまなものが通った。藩主の遺体や、江戸で処刑された罪人のなま首や死体が通ることもあった。このように佐渡の金銀の江戸への輸送、無宿者の佐渡への送りこみなどに北国往還は利用された。