助郷体制の整備

800 ~ 802

宿場の本務は、公用人馬を円滑につぎの宿場まで送りとどけることである。継ぎ送りは人の肩と馬の背によっておこなわれた。これに要する人馬を提供する負担を伝馬(てんま)という。このため宿場には常備の馬と人足が置かれていた。北国往還の常備人馬は二五人・二五匹である。しかし、大名行列や佐渡の金銀輸送などで大量の通行があるとき、常備の人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたした。その不足を補うため、宿場近郷の村々が人馬を出して助けてくれる制度、その課役、その村々を助郷(すけごう)といった。

 大久保長安と松平忠輝重臣らが慶長十六年(一六一一)九月三日に善光寺宿(大門町)や新町(あらまち)宿(若槻)など矢代以北の宿場にあてて出した伝馬条目で、大伝馬の宿場対応をつぎのように命じている(『県史』⑧九四六)。

大伝馬のときは隣郷の人馬を使い、伝馬宿は赦免あるべし、江戸(将軍秀忠)・駿府(すんぷ)(大御所家康)のごとく御仕置きつかまつるべく候、もし俄(にわか)の儀にて人馬入り候わば、伝馬奉行へ人馬を貸し、奉行より人馬の駄賃を取るべきこと

 右のように、隣郷の人馬を使って大伝馬を継ぎたてることを指示している。その慶長十六年の伝馬条目に近世助郷制度の始まりがあるといわれている。幕府は、寛永十四年(一六三七)、江戸-京都間の幹線宿駅に幕府の権力によって助馬(すけうま)村を設置した。

 当地の助郷は、宿駅と領分を同じくする近隣の村のあいだで相対(あいたい)雇用によって間にあわせる「相対助郷」が初期の形態であった。善光寺宿隣接の妻科(つましな)村のうち後町(ごちょう)組(西後町)は寛文十年(一六七〇)に奉行所へ訴えたなかで、「御伝馬役は中之御所村で受けるか、後町組でやるかは決まっていないが、奉行所からたびたび後町だけに手形がくるので伝馬場のようになっている」と申したてた。後町組には馬がなく善光寺領の馬を頼んで勤めている。一日のうちに四つ、五つまたは一五もあたるので、伝馬費用がかさみ「一町ひしとつぶれ申し候」とも訴えている(『大鈴木家文書』長野市博寄託)。このように、頼まれる村々は、助郷は余分な迷惑な仕事であったから、触れ出し手続き不備、人馬不足、村方疲弊など、いろいろな理由をつけて回避しようとした。

 このように宿駅の問屋が相対で人馬の調達ができにくくなったため、元禄二年(一六八九)、幕府は五街道で助馬村の実態を調査し、元禄七年に宿ごとに助郷村々を割りあて助郷帳を各宿場へ下付した。宿駅への人馬の提供は領分の境界を無視した特定郷村への強制的賦課となった。指定された村々は、村高一〇〇石につき二人・二匹を提出する定めであった。中山道筋では享保三年(一七一八)と延享(えんきょう)三年(一七四六)に大規模な助郷村割り替えがおこなわれ、後者が幕末におよんだ。