北国往還の助郷

802 ~ 805

松代領内各宿場への助郷村々は、享保(きょうほう)十年(一七二五)ごろ、表1のようにきまったと『松代町史』下巻にある。村名だけ列挙してあり、どのように指定されたかについては触れていない。北国往還の本街道にあり、諸大名の参勤交代や佐渡金銀の伝馬などの任務があった丹波島宿(更北丹波島)へは更級郡の一八ヵ村、同じく新町(あらまち)宿へは水内郡の三四ヵ村、村高はそれぞれ一万六〇〇〇石ずつをつけている。一〇〇石で二人・二匹の人馬という規定によれば、三二〇匹・三二〇人の人馬を動員できる村高である。


表1 享保10年(1725)松代領各宿場助郷村々一覧

 これにたいして、松代通りの宿場である福島宿(須坂市)は三ヵ村約三〇〇〇石、川田宿は五ヵ村約四八〇〇石、松代宿は一四ヵ村約六六〇〇石となっており、丹波島宿や新町宿の半分以下である。なお、矢代宿(更埴市)は北国往還の本道と松代通りの交わる要(かなめ)の位置にあったため、千曲川両岸の更級郡二〇ヵ村約一万三〇〇〇石と埴科郡九ヵ村約六〇〇〇石、計約一万九〇〇〇石の助郷村々がつけられている。

 元文(げんぶん)四年(一七三九)、水内郡長沼上町(かんまち)宿の馬継ぎを助ける加宿(かしゅく)として、長沼地区の栗田町・六地蔵町・津野・内町の四ヵ町村と村山村(柳原)が指定された。そのすぐあとの寛保(かんぽう)二年(一七四二)の大満水以来長沼地区の村々は水害のため助郷困難におちいり、長沼宿の継ぎ立てが不可能となった。そのため高井郡福島(ふくじま)宿(須坂市)から長沼上町宿を避けて新町宿へ継ぎおくる臨時の処置が三年間つづいた。その年季切れ以後、長沼上町宿の隣宿である水内郡神代(かじろ)宿(豊野町)はたびたび、長沼宿に以前から助郷している村々を神代宿にも加勢させてもらいたい、と中野代官所へ申しでた。この願いが明和九年(一七七二)に実現し、神代宿への助郷一四ヵ村とともに、長沼宿への助郷村も水内郡金箱村(古里)などの一七ヵ村、高七三四〇石があらためて指定された。この勤め高は松代通りの宿場とだいたい同じ石高である。

 善光寺宿の継ぎ送り人馬は、宿内一五町のうち大門町三八軒、横町七軒、西町二〇軒が軒役で馬を出してつとめる原則であり、人足は西町・西之門町・阿弥陀院(あみだいん)町(栄町)・後町・東町・東之門町・伊勢町の軒役九三軒で交互につとめた。これで不足のときは加宿として、善光寺領の平柴(ひらしば)村(安茂里、六九石余)・七瀬村(芹田、四〇六石余)・箱清水村(箱清水、二七四石余)が人足を出す態勢となっていた。享保十年に新町宿などと同時に助郷村々が指定されたかどうかについては確認できない。善光寺宿の助郷については、「加宿のほか元来助郷等は一ヵ村もこれなく」と元治(げんじ)元年(一八六四)に善光寺宿の問屋小野善兵衛が申したてている(『県史』⑦二〇二二)。

 しかし、安永三年(一七七四)、善光寺宿など北国往還諸宿の助郷は、「駅法確立して、北は牟礼および柏原駅、南は本駅(新町宿)・丹波島・矢代の五駅合併、荷物持ち送りと相成り」、助郷村が表2のように三四ヵ村に定まったという(『町村誌』北信篇)。この村々のうち、ほとんどは享保十年に新町宿へ助郷を指定された村々であり、新規は水内郡石渡(いしわた)(朝陽)・三輪(三輪)など五ヵ村にすぎない。ともかくも柏原宿から善光寺宿をはさんで矢代宿まで共通の大助郷村の編成である。北国往還の本通りであったため、享保十年の新町宿・丹波島宿とほぼ同じ村高が助郷としてつけられている。


表2 安永3年(1774)新町宿・善光寺宿の助郷村々

 丹波島宿では、享保十年から更級郡大塚村(更北青木島町)ほか一八ヵ村が助郷にあたってきたが、幕末になると助郷村の小前百姓たちが自由な考えをするようになり、「村役人どもの申しつけをきかず、ときどき人馬遅参や不参をするようになり、継ぎ立てに差し支え」るようになった。そのため、元治(げんじ)元年にあらためて更級郡大塚村(更北青木島町)など二〇ヵ村が指定された(同前書)。

 村高約一万五〇〇〇石であるが、勤め高合計は村高のほぼ三分の一の約四九五〇石である。全村高をあげての助郷ではなく、それぞれの村の事情にあわせて勤め高を算定してある。このうち、水内郡久保寺村・小柴見村(安茂里)は安永三年に善光寺宿などへの助郷にもなっていた。また、更級郡二ッ柳村(篠ノ井)から原村(川中島町)までの六ヵ村は、中山道追分・沓掛(くつかけ)の両宿(北佐久郡軽井沢町)への増助郷村であったから、増助郷の年季があけたらその分を丹波島へ助郷することになっていた。この六ヵ村は、追分・沓掛両宿の定助郷のうち三ヵ村が一〇年間役を休むことになった代役を命じられたものである。