松代通りの宿場であった長沼宿では、市村(芹田)舟留めのさい突然に大通行があると、各村への手配がたいへんであった。とくに宿場に隣接していない栗田・千田・荒木(芹田)、問御所・中御所・権堂などの村々は善光寺宿の南にあり、長沼上町から遠かったため助郷手配が遅れたり、出役する村の百姓たちも遅参したりの行き違いがおこりがちであった。ほんらいは問屋が代官所に願いでて正式に各村へ順達するのであったが、長沼上町宿の助郷人馬は、「大通りの節は内触れだけでも人足を差しだし、役所の本触れが後まわしになっても前々から人馬を滞りなく差しだすこと」になっていた(『県史』⑦二二一四)。そのため問屋と人足たちとのあいだで悶着(もんちゃく)がおきがちであった。
安永八年五月、長沼上町宿の助郷村、三才(古里)、田子(たこ)(若槻)、千田・栗田(芹田)、金箱・下駒沢(古里)の六ヵ村は、「問屋が代官所の触れ出しを待たずに内触れだけで人馬を割りあてられては、大通りか小通りかの区別もわからずはなはだ迷惑である。いままでどおり代官所の触れ出しで割りふってほしい」と中野代官所へ訴えている。天明四年(一七八四)には、栗田村など四ヵ村が、人馬の差出触れの届くのが遅くて人足が遅参したこともあった。享和二年(一八〇二)、文化元年(一八〇四)にも、栗田村などは内触れだけでは人馬を出さないといいはったが、長沼上町宿は「遠く離れた村々へは役所の本触れが間にあわず、内触れだけでやらざるをえない」と通告している(以上、栗田 倉石里美蔵)。このように助郷を手配するほうも人馬を差しだすほうも、急な通行のさいは差しもつれが多く、互いに迷惑していた。
遠く離れた宿場へ助郷を割りあてられた村々は、宿場への往復の日数を入れると一回の出役に三日以上もかかり、農繁期などにはとくに困難であった。また、宿場がわでも村々への通達に日時を要した。このような双方の事情から、人馬を出せない百姓あるいは村は貨幣で代勤していた。そのことが宿駅や助郷村内に助郷役請負業者を生みだしていた。追分・沓掛両宿への代(だい)助郷を命じられた二ッ柳村など六ヵ村は、遠くまで人馬を差しだすことは事実上不可能であったから、追分・沓掛の両宿付き定(じょう)助郷の村々へ金銭を出して、人馬の「買い雇い」を依頼していた。その代銭は人足一人に永一二五文、馬一匹に永二五〇文である。六ヵ村の割りあては元治二年(慶応元年、一八六五)からの一年間に人足八五七人余、馬七五六匹余であった。この代銭だけで永二九六貫文余(永一貫文は金一両)、ほかに宰領(さいりょう)の賄い料など永六五貫文余が六ヵ村一年間の負担である(『県史』⑦一七一〇)。このような代銭支出は村々にとって大きな負担となった。助郷関係支出は村入用の半分近くにもなり、村財政に破綻(はたん)をもたらす実情となって、小百姓をふくむ全村の問題となった。
年々かさむ助郷負担に対応するため、伝馬助成無尽講をおこした例もある。飯山町(飯山市)では安政四年(一八五七)に、三〇人くじ、二〇〇両取りの無尽があった(『県史』⑧五五五)。
伝馬に出役する村や人足の勤めぶりはどうだったろうか。高井郡上八町(かみはっちょう)村(須坂市)の記録によれば、天保十三年(一八四二)三月二十二日、加賀藩主の通行にさいし矢代から牟礼宿まで付けとおしの伝馬役をすまし二十五日に帰村した(『県史』⑧七四八)。この場合は一回の出役に四日かかっている。安政七年(万延元年、一八六〇)長沼上町助郷の田子村は、諸大名通行のさいの難儀をつぎのように訴えている。「加賀・高田など五大名が年々通行の節人足が多くかかり、そのうえ三月中の通行なので川留めが多く、そのときはおびただしい人足となり小前一同はなはだ難渋である」と。馬の少ない村では、馬一匹の割りあてに人足二人があたることになっていたから村中の百姓が動員されることもあった。また、文久元年(一八六一)九月の加賀藩主の通行にさいして、久保寺村は付けとおし雇い馬三匹を矢代宿から牟礼宿まで命じられている(『安茂里史』)。このように大名の通行のさいは、荷物は数宿のあいだを付けとおすのがふつうであった。
助郷にともなう問題のひとつに、宿場町の飯盛女(めしもりおんな)に身をもちくずす若者の問題もあった。善光寺宿に隣接した権堂村(権堂町)や埴科郡下戸倉宿(戸倉町)・坂木(さかき)宿(坂城町)、小県郡海野(うんの)宿(小県郡東部町)などにも飯盛女がおり、宿場や街道の風紀を乱すとして問題となっていた。文化十一年(一八一四)、高遠領の七ヵ村が筑摩郡洗馬(せば)宿(塩尻市)など三宿の飯盛女の廃止を求めた願書は、宿場で遊びをおぼえた若者が身をもちくずすのを心配したものであった(『県史』⑤一四七〇)。