信州で北国往還といわれる街道は、中山道と日本海側の北国街道(北陸道)を連絡する信州・越後の両国にまたがる道筋をさす。この道筋は北国街道ともいわれ、中山道の追分宿(北佐久郡軽井沢町)で中山道と分かれ、小諸(小諸市)、田中・海野(小県郡東部町)、上田(上田市)、坂木(坂城町)、戸倉(戸倉町)、矢代(やしろ)(更埴市)、丹波島(たんばじま)・善光寺・新町(あらまち)(長野市)、牟礼(むれ)(牟礼村)、古間・柏原・野尻(のじり)(信濃町)の各宿場をへて越後国に入り関川(せきがわ)関所(妙高高原町)を通り高田城下(上越市)に達する。これら宿のうち、田中と海野、古間と柏原は相宿(あいしゅく)で月の半分ずつの宿役をつとめ、戸倉宿は上戸倉と下戸倉に分かれていた。
矢代宿から約三里で丹波島宿にいたるが、そのあいだに矢代の渡しで千曲川を越える。正保(しょうほう)四年(一六四七)の信濃国絵図には「千曲川と矢代のあいだ五町一五間、水面三五間・深さ六尺、船渡し」となっており、両岸に渡した綱を手繰(たぐ)ってすすむ繰り船渡しであった。同絵図に「塩崎村のうち篠根村」とあるのが篠ノ井追分である。ここは善光寺宿から越後への北国往還と稲荷山宿(更埴市)から松本城下へ達する北国西往還(善光寺街道)との分岐点である。
篠ノ井追分は、宿場ではなかったが、あたりに宿屋が何軒かあり稲荷山宿(更埴市)や丹波島宿から旅籠(はたご)営業禁止の訴えがたびたび出ていた。丹波島宿は天明五年(一七八五)九月、篠ノ井の新舟渡し仮道差し止めの願いを出している。願書は篠ノ井の旅籠屋稼業が丹波島・稲荷山両宿の差し障りとなっていることをのべ、新しい舟渡し場からの仮道は篠ノ井の宿屋へ旅人を導くようになっているので止めさせてもらいたいと訴えている。宿場の旅籠にとって篠ノ井の宿屋は手ごわい競争相手であった。そのため、丹波島宿は、善光寺参詣の旅人を宿内の旅籠になるべく宿泊させるために、翌六年三月、善光寺大勧進へ、旅人への御血脈(けちみゃく)授与の儀は朝五ッ(午前八時ごろ)までと昼八ッ(午後二時ごろ)の二度にしてもらいたいと願いを出した。善光寺まで一里ばかりの宿場なので朝早く川を渡って善光寺に参詣し、または昼の御血脈を受けたあと丹波島で宿をとらせようとの意図であった。
文政十年(一八二七)ごろに出版された『諸国道中商人鑑(あきうどかがみ)中仙道・善光寺之部』に篠ノ井柳屋の広告があり、「篠ノ井は左京都、右善光寺への追分である。矢代から一里、このあいだに千曲川船渡しがある、ここから善光寺へ三里余り。木曽へお通りのお方は、またここへ善光寺から帰って来るのだからお荷物など預けておけば都合がよろしい。足よわの旅人が行き暮れたときは止宿させる茶店もある」と記している。このころ、篠ノ井には、茶店一〇、水茶屋、小商い七、居酒屋三、旅商二など約三〇軒の旅人相手の店があったというから、その繁盛ぶりが推量される(『長野県の地名』)。嘉永二年(一八四九)に刊行された『善光寺道名所図会(ずえ)』にも、「ここに立石の茶屋柳屋がある。繁昌(はんじょう)の地である。ほどなく千曲川の渡し口に出、左に笹井宮、右に唐猫(からねこ)宮があり、深い林のなかに朱の鳥居が見える」と描写されている(図2)。