善光寺宿

816 ~ 822

善光寺町は門前町・市場町・宿場町の三つの働きをもつ町である。善光寺は古来、全国から多くの人びとが参詣におとずれ、その道筋は「善光寺道」とよばれていた。近郷の村々からは所の産物を売買する人たちが善光寺門前の十二斉市(じゅうにさいいち)に集まってきていた。慶長十年(一六〇五)ころからは、越後から牟礼宿をへて善光寺への道が北国往還として整備されはじめ、同十六年九月三日に善光寺宿をはじめ近辺の宿場に「伝馬宿書出」が交付され、伝馬宿の運営方針が示された。こうして、善光寺宿は伝馬宿となり、越後方面へは新町宿へ約一里、江戸方面へは丹波島宿まで約一里一二町の人馬継ぎ送りにあたることになった。

 正規の宿場になって約三〇年たった寛永十六年(一六三九)の秋、善光寺大門町が善光寺の代官の非法を訴えた訴状と代官がわの反論のなかに、初期の善光寺宿のようすがみられる(大勧進蔵)。それによると、善光寺宿の伝馬役は西町・東町と大門町がひと月の一〇日ずつを分担していた。ところが大門町の希望で西町・東町は五日ずつ、大門町が二〇日をつとめることになり、やがて内々で東町の分も大門町が引きうけ月二五日伝馬役を引きうけていた。代官の言い分によると伝馬役は大門町と西町で馬役七一軒、かち役五五・五軒となっていた。

 善光寺宿には平柴(安茂里)・七瀬(芹田)・箱清水(箱清水)の三ヵ村の加宿のほかにきめられた助郷村々はなかったというが、享保九年(一七二四)七月の加賀藩主の通行には人足五〇〇人ぐらい、馬二五〇匹の用意を命じられ、新町・丹波島の両宿と連携して用意、また同十二年三月の大通行には、お定めの人馬のほか馬二五〇匹・人足一〇〇人を丹波島と半分ずつ用意した。このように隣接の松代領の村々に人足を出してもらうことが多く、安永三年(一七七四)には新町宿と共通の助郷村三四ヵ村が定まった。この助郷村々は、明治二年(一八六九)九月の「取究め申す規定証文事」(『千田連絡会文書』長野市博寄託)によっても確認されるから、江戸時代中期以降は、新町宿と共通の助郷村々がついていたのである。

 文化二年(一八〇五)、善光寺宿・新町宿・丹波島宿が取りかわした規定によると、加賀藩主が通行するさいは、善光寺宿から前後の新町宿と丹波島宿へ一定の人馬を差しだすことになっていた。人足は通行のさいの増減にかかわらず前後宿へ二五人ずつ出す。馬は、総数二〇一匹以上用意せよとの先触れのときは前後宿へ二五匹ずつ、一九九匹以内のときは二〇匹ずつ、二〇〇匹のときは藩主参府の場合新町宿へ二〇匹、丹波島宿へ二五匹、藩主帰国の場合は新町二五匹、丹波島二〇匹という取りきめである。この取りきめは、一〇〇〇軒をこすような大きな町場である善光寺宿から農村部の新町宿と丹波島宿へ応援態勢をかためて大通行の継ぎ送りを円滑におこなおうとしたもので、この取り扱い人は吉田村(吉田)の信行寺であった。善光寺宿から出向く人馬もなかば専業化した請負人たちであっただろう(『県史』⑦一六三八)。

 大門町や西町が伝馬役をつとめることができた裏づけに、市立てによる稼ぎがあった。十二斉市は「一東、六西、四九大門」といわれ、一の日は東町、六の日は西町、四と九の日は大門町で市立てするのがきまりであった。伝馬町である大門町が月に六度の市日を独占するようになったのは、延宝(えんぽう)・天和(てんな)(一六七三~八四)の大門町の働きかけがあったからである。

 延宝六年(一六七八)、大門町は「犀川の渡し場がしばしば川留めとなるので大名行列が川東道を通り、善光寺町はいよいよ町もくたびれ申し候」と伝馬町の窮状を訴えた。また天和二年(一六八二)七月の大門伝馬町から奉行への訴えによると、「従来市立てによって在所からの品物の売買利益で伝馬役をつとめてきたが、このごろ岩石(がんぜき)町などが勝手に市を立てるので伝馬町の市が立たない状況である。これを古来のとおり六日を大門町で市立てできるように御伝馬町の市場で売買できるようにしていただければ、伝馬役をつとめられます」といっている。市場町の繁盛なくして宿場町の繁栄も保てなかったわけである。また古来、四五匹の役馬は現在一七匹しかなく、近年御伝馬がひんぱんで伝馬役ができないと訴えた。この結果、伝馬町の大門町を保護するため、月に六度の市を大門町に独占させ、残りはほかの町にまかせた(『長野市史考』史料25)。寛政三年(一七九一)には大門町以外の町の旅籠(はたご)営業禁止をかちとり、弘化三年(一八四六)にも大門伝馬町は同趣旨の禁止令を出してもらい、伝馬町の特権を守ろうとした。

 宿場には所定の人足と馬が用意され、公用で通る武士などは無料か公定賃銭で宿場の人馬を利用し、一般の商人などは、公定賃銭の倍額ぐらいの賃銭を払って利用した。善光寺宿からは隣の新町宿・丹波島宿への継ぎ立てのほか、代官の出張所のあった水内郡富竹村(古里)や、北国往還松代通りの長沼宿、松代通り・飯山街道の神代(かじろ)宿(豊野町)、戸隠山などへ人馬を継ぎたてていた。

 これらの宿場などへの駄賃は距離と道路状況によって公定されており、中山道などで割増賃銭が認められるとおおむねそれに見あう額に引きあげられた。享和三年(一八〇三)の公定駄賃は、善光寺から一里の新町へは人足は二一文、四里余の戸隠へは一五五文で、山坂道のつづく戸隠行きの一里あたりの人足賃は約一・八倍、軽尻(からじり)馬(積荷量が本馬(ほんま)の半分の二〇貫)でも約一・七倍ぐらいとなっている。なお、戸隠行きには四〇貫の荷物をつける本馬はなく、軽尻馬が利用されていた。善光寺宿から一里あたりの人足賃をくらべると、神代行きが一番安く、ついで新町、丹波島、富竹、長沼、戸隠の順である。軽尻馬はこれと異なり、丹波島、富竹、神代、新町、長沼、戸隠の順である(同前書史料27)。

 宿場には問屋と本陣が置かれており、この両者が宿役の中心であった。善光寺宿の問屋・本陣の任免は領主の善光寺によっておこなわれた。


写真5 旧善光寺宿本陣藤屋と街並み
(大門町)

 本陣は主に大名や幕府役人などを宿泊させる公認の宿舎である。善光寺宿では江戸時代初期には松井・羽田家が、なかばには藤井・中沢・坂口家が交互につとめ、安永五年(一七七六)からは藤井家が本陣を独占してきた。問屋役は、宿場に到着する公用荷物を備えつけの人馬で継ぎおくる手配を一手にとりしきる役である。実務にあたる馬指(うまさし)を下役としていた。善光寺宿の問屋は初期には本陣とかねて松井家が、正保四年(一六四七)以降は小野家を中心に、羽田・島田・坂口の各家も問屋役をつとめた。善光寺宿の本陣と問屋の歴代は、表5・6のとおりである(同前書史料44)。善光寺宿の問屋役は、小野家が正保四年から嘉永元年(一八四八)までほとんどの期間、約二〇〇年を善兵衛の名で世襲していた。小野家が嘉永元年に免職となったあとは、大門町の庄屋中沢与三右衛門が問屋役についた。小野家は伊勢暦の欄外に簡略な日記を残しており、その日記は善光寺宿のようすを今に伝える貴重な史料となっている(同前書史料45)。


表5 善光寺宿本陣


表6 善光寺宿問屋

 宿場は人馬を整えて送り迎えする。善光寺宿を通行した大名行列は、加賀、富山、高田(上越市)、大聖寺(石川県加賀市)、飯山などの藩主である。小野家の日記によると、加賀藩主の参府・帰国のさいは、牟礼宿で泊まり、善光寺宿通過、丹波島宿休み、坂木宿泊まりが慣例であった。富山藩主も加賀藩主と同様善光寺宿は「すぐお通り」が多かった。善光寺宿は参詣客でにぎわっていたから、大名たちはなるべく宿泊しない日程を組んでいた。善光寺宿通過の予定であったが、犀川満水のため善光寺宿に三夜逗留した享保十五年八月晦日(みそか)の加賀藩主の場合などは例外であろう。しかし、大名行列の通過だけでも宿人足はおおぜい必要であった。文政七年(一八二四)二月二十日の加賀藩主通行には、善光寺宿で本伝馬四五〇人を、天保九年(一八三八)八月、加賀藩主前田斉泰(なりやす)夫人真龍院の通行にも本伝馬四〇〇人を出している。

 大名の通行にはいろいろな迷惑を受けたであろうが、善光寺宿本陣でおこった弘化二年(一八四五)四月五日の殺傷事件は特別であった。加賀藩主の出府のさい、善光寺宿で中休みをした。そのとき家臣の一人が乱心し本陣の隠居を切り殺し数人に傷を負わせ、侍は犀川まで逃げて自殺した。被害者たちは「これまでの約束ごと」とあきらめて終わった。このような大迷惑はあったが、行列の通行がなければ、宿場は火の消えたように沈滞することも事実であった。弘化四年の震災後、加賀藩・大聖寺藩の本隊は善光寺通りを避けて木曽路(中山道)経由で帰国した。翌年、柏原から丹波島までの宿場は加賀藩へ借金を申し入れ、宿場の難儀を建てなおそうとした。この年十月、来春の藩主通行に備えて加賀藩から善光寺本陣に「御殿普請」用に一五〇両があたえられた。

 丹波島の渡し場が大出水などで留まったときは、北国往還の通行は松代通りとなり、善光寺宿から長沼へ抜ける場合もあった。享保十九年六月、佐渡の御金荷物が善光寺で大水のため二晩泊まり長沼から布野の渡しを通って運ばれ、文政七年四月、御蝋(ろう)荷物の先触れが善光寺宿へ到着したが舟留めとなり、荷物は善光寺から長沼へ出ていった。

 文化十年七月五日、佐渡からの運上金が善光寺宿を通行したときの記録をみると、妻科村大入作(後町組)の家で昼休みをとり、その日は矢代宿で泊まっている。佐渡の一行の人数は宰領の山下仁兵衛・仙田小左衛門・安田良助の三人と下士二八人の計三一人であった。この人数への昼の賄い料としての玄米七升余と薪一駄一束余が大入作庄屋茂左衛門へ支給されていた。賄いには松代藩の役人が立ち会っていた。宿泊の矢代宿では、夕・朝の二食六二賄いで、一賄いに四八文の銭三貫一〇〇文と薪五駄三束余(三三束余)、玄米二斗四升一合余などが支給された。矢代宿では村の料理人三人、風呂番三人、夜具番二人、給仕六人、雑用四人の計一八人三六食分の玄米も支給されている。毎年ほぼこのように記録されている佐渡御用金の一行の一例である(「勘定所元〆日記」)。

 佐渡の金銀荷物が善光寺宿で泊まるときは、慣例により善光寺本堂へ積みいれて警護した。天保十四年正月二日に「佐渡御金荷物一八個お泊り、先例により本堂へ積み入れ、翌日継ぎ立て人足五〇本伝馬」とある。江戸の無宿者を佐渡へ送ることは、安永七年四月に幕府が定め、同年七月八日に松代街道を目籠(めかご)六〇挺が通行したという神代宿の記録が早い例である(水内郡蟹沢村庄屋「仙右衛門日記」)。善光寺宿には、天保八年七月、大坂から佐渡への水替え人足を通した記録があり、同九年、佐渡送りの囚人預かり証文(写真3)が残されており、また同十年八月には佐渡で騒動をおこした囚人一七人も囚人籠で宿泊している(一項「佐渡金銀の通行」の項参照)。

 文政から天保の時期、善光寺宿大門町には、本陣のふぢや平五郎、問屋兼検断の小野善兵衛のほか、ふぢや平左衛門・いけだや沖右衛門・ゑどや茂左衛門・つちや弥平・げんきんや孫兵衛・池田屋六右衛門・わたや仁左衛門・しなのや十左衛門・あふぎや金四郎などの旅宿や商(あきない)屋が軒を並べていた(『諸国道中商人鑑』)。