松代宿

829 ~ 832

北国往還の矢代宿から松代城下、長沼宿をへて牟礼宿にいたる道筋は、北国往還松代通りとか、松代街道とよばれた。北国往還の事実上の本通りは善光寺通りであったが、降雨出水で犀川の市村(芹田)の渡しが舟留めとなるたびに、街道の人馬は松代通りを通行した。そのため、この街道は「雨降り街道」ともいわれた。この道筋の宿場は、埴科郡松代、高井郡川田・福島(ふくじま)、水内郡長沼・神代(かじろ)の五ヵ宿である。

 松代宿は、永禄(えいろく)三年(一五六〇)までに武田氏によって築かれた海津城の城下町に発達した宿場である。城下町なので計画的に武家屋敷町と町人町が形成された。町人の町は、城下の西から街道沿いに馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋(こんや)町・伊勢町・中町・荒神(こうじん)町があり、東裏通りの肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町とあわせて町八町(まちはっちょう)といわれた(四章二節参照)。

 松代の町役人は、町年寄・検断・名主・長町人である。町年寄は中町・馬喰町・紺屋町・紙屋町・鍛冶町などの杭全(くまた)家・八田(はった)家・伴(ばん)家・島田家などで、これらの有力町人は宿場の問屋も兼ねることが多かった。松代の宿駅伝馬の差配は町奉行がおこなった。松代宿には本陣はなく、年寄の下に各町の名主(肝煎(きもいり))・長町人がいた。検断は町年寄を兼ねることもあったが、諸荷物の検査や旅人の異変の吟味にあたる自治警察的な存在であった。

 寛永十年(一六三三)の奉行心得の「定」によれば、町奉行の証印のある場合に町方は伝馬人足を出すことになっており、知行取りの武士には伝馬は出さなかった。ただし、領主の二、三男が江戸へ行くときは町人町が伝馬を負担した(『更級埴科地方誌』③下)。

 寛文(かんぶん)十一年(一六七一)四月の「松代町差出伝馬帳」(『県史』⑦一五九一)に、八町の本家(ほんや)と合家(あいや)の軒(間)数・本役屋敷軒数・役抜け軒数・役勤め軒数と各町の役割が記されている(表8)。これによると町人の役負担は寛永十年の定めより細分化し増大している。


表8 寛文11年(1671)松代八町役屋等

 八町のうち馬喰町・紙屋町・紺屋町は伝馬人足は出さず、残りの五町が伝馬人足を負担していた。五町の本家・合家は二九五軒であったが、本役屋軒数にすると二三三軒であった。このうち肝煎・月行司・歩き・御使者宿などの「役抜(やくぬけ)」二九軒を除いて二〇四軒が伝馬役にあたった。五町の伝馬役は、表8のように日割りで月に最小三日から九日間つとめている。この日数の差は、家数と表通りの間口の軒(間)数に比例するという(『更級埴科地方誌』③下)。

 伝馬役のなかみは以下のようなものであった。①藩主が江戸へ出立のとき、②江戸へ御荷物を出すとき、③御小姓衆・御切米取り衆の用事のとき、④御茶道衆・掃除坊主の用事のとき、⑤御台所・御扶持方渡し衆の用事のとき、⑥小道具御足軽衆の用事のとき、⑦蝋実(ろうみ)など在方仕置きに役人出役のとき、⑧小市村(安茂里)馬市へ御馬が行くとき、⑨伊勢御師の檀那(だんな)巡りのとき、⑩愛宕(あたご)坊の用事のとき。このうち、①~⑥までは江戸への御用、⑦からは「在々への御用」である。

 右のように城下町松代宿の伝馬役は、主に藩の夫役(ぶやく)的な役目であった。これ以外の伝馬宿としての継ぎ送りには、二五匹の伝馬を常備し、このうち一四匹は近村の馬方が受けもっていた。二五匹の役馬の負担は伝馬五町で割り合い、負担した。大通行などに備えて、松代宿に付属していた村は埴科郡田中・清野・加賀井・桑根井・東寺尾・牧内・関屋・平林・柴(しば)の九ヵ村(松代町)と仙仁(せに)村(須坂市)であった(同前書)。これらの村々のうち八ヵ村は、享保十年(一七二五)に松代宿の助郷に指定された村々と重なっている。

 松代藩主が江戸から松代へ帰城するさい、「御陸尺(ろくしゃく)御添肩の者」(駕籠(かご)かきか荷物かつぎであろう)六人を荒神町の喜右衛門が請け負い、肴町の又左衛門がうけた事例がある。文化九年(一八一二)五月のことであるが、藩主の行列は五泊六日の予定であった。川留めなどで一日日延べとなっても一人につき金一両銀五匁八分(ふん)ずつの賃金は変わらないが、それ以上延びたときは、一人一日につき銀五匁四分八厘余が支給される約束であった。請負金は六人で金六両二分余であったが、その半金を松代でもらい、あとは道中で受けとることになっていた。伝馬役は町人たちが負担するのであるが、じっさいには請負業者が人足を集めて代役していた。

 文政二年(一八一九)四月の紺屋町御触書請書(うけしょ)に、町方から付けだす綿・布・種(菜種)・藍(あい)などの荷物の駄賃定めなどが記されている(『県史』⑦一六四五)。これは矢代・川田・稲荷山・丹波島・善光寺の諸宿へ送る荷物のなかに、検断をとおさず荷主と馬方との相対(あいたい)で送りだしているものがあるのを改めようとしたもので、馬の調達も町方抱えの馬を止めさせ「馬入用のときは問屋から馬をうけとり諸荷物を差しだせ」というものである。駄賃については、割増賃銭三割増のうち一割は藩役所へ上納し、一割は宿方へ、一割は当日勤め人馬へ割りふるように改められた。

 同じ史料の「諸荷物駄賃定」のなかの商品荷物は多様であり、活発な商品流通の状況をうかがうことができる。これらの商品は三つに分類され、それぞれ松代から諸宿への駄賃が定められている。従来の駄賃より低くおさえてあるが、第一類の呉服・麻・木綿など三一品目と第二類の煙草・薬・油など一一品目の荷物は、刎銭(はねせん)・庭銭を加えると、従来の駄賃を上まわるように改訂されている。第三類酒・板類・塩など七品目のかさばったり重い荷物類は刎銭・庭銭を加えても、それまでの駄賃より低く改訂された。第一類の呉服物など一駄の矢代までの駄賃はそれまで二〇二文であったが一七二文とし、これに刎銭・庭銭を加えて計二二二文としている。第二類もほぼ同様である。第三類の矢代までの駄賃はそれまで一五〇文だったが、この改訂で一三六文となり約一割引き下げである。

 第一分類の荷物

呉服・布・麻・糸・繭・篠巻(しのまき)・木綿・菜種・紅花(べにばな)・藍・紙・蝋(ろう)・漆(うるし)・畳表・蓙(ござ)・硫黄・焔硝(えんしょう)・砂糖・野菜類・乾物・肴・椀木具・樽物(たるもの)・金具類・小間物・竹細工類・蓑笠(みのかさ)・傘(からかさ)・鉄・種ごま・荏(え)

 第二分類の荷物

  煙草・薬物・陶器・砥石(といし)・石灰・下駄・桶(おけ)類・綿実・油・茶・明樽類

 第三分類の荷物

  酒・酢・醤油(しょうゆ)・粕(かす)類・板類・建具・塩

 これらの荷物の駄賃は表9のとおりである。


表9 文政2年(1819)諸荷物駄賃定(1駄につき)