川田宿

833 ~ 837

慶長十六年(一六一一)、川田宿(若穂)は北国往還松代通りの宿場に指定された。宿場の問屋役を又右衛門(西沢家)が申しつかっていたことは、寛永五年(一六二八)二月の証文や延宝六年(一六七八)の問屋と町方の出入り願書で明らかである。後者の願書によると、川田宿の問屋は「道中並みに仰せつけられ、商人荷物を改め口銭を取ってもよい」との証文をもっていた。ところが、近隣の山から産出する石材については、問屋場を通らないことがあって、石材についても問屋場で口銭を払うように確認されていた。しかし、延宝ごろには荏(え)ぐさ・からしは道中並みであったが、飯山藩米の取り扱い手数料は問屋と町方で折半、商人荷物は商人の泊まった宿が口銭を取るようになってきた。問屋又右衛門はこのような状況を「町中のわがまま」として問屋の取り分を確保しようとしたのである(『県史』⑧七二七)。

 川田村の村高は二〇〇三石余(慶長七年)、そのうち宿場となった町川田村の村高は一〇二一石余である。千曲川に沿っているため、川田宿はたびたび洪水の被害をうけた。元禄十一年(一六九八)の満水、享保六年(一七二一)の満水などで川欠けとなり、欠け残り村高は二一六石、それで四〇〇石分の伝馬役を勤めることになり、困窮しきった村人のうち二九人が享保十一年に田地を捨てて村を立ちのいてしまった。さらに享保十六年五月の洪水でも家二三軒が流されるという被害をうけ、伝馬役の馬も七匹となってしまった。そこで職奉行所へ近村の一五匹の馬を助馬(すけうま)として宿場勤めができるように願った(『県史』⑧七三一)。

 元文(げんぶん)三年(一七三八)六月には町の入り口で堤防が切れて、町中が石河原と化してしまった。そこで同年七月、川田宿の問屋三郎兵衛・肝煎(きもいり)重介ら六人の名で奉行所へ宿場移転と財政的援助を願いでた(『県史』⑧七三二)。つぎのような内容である。

 ①西町・東町の水田に新たに町割りさせてもらい、町割りの場所は半高にしてもらいたい。

 ②家の引っ越しに二七〇両を拝借したい。

 ③御田地のうち「御入り下げ」二〇〇石をいただきたい。

 ④馬の飼い料として七五両を拝借したい。

 この願いによって翌年三月、新しい川田宿の絵図面ができ、五月には新しい町割りの屋敷道成りの差し引き帳もつくられ川田宿は一新した。絵図面によると、計画的につくられた新しい宿場町は、従来より南へ二〇〇間(約三六四メートル)ほど寄っていた。宿場は、上横町・本町・下横町によって北に開かれたコの字形に形成された。上・下の横町の町幅は四間(七・三メートル)ずつ、長さ五九間二尺と九五間四尺である。中心部の本町は、道幅七間で町の長さ二〇一間二尺(約三六六メートル)であった。本町の中央北がわに間口二四間の本陣兼問屋西沢家を置き、本陣の近くに間口の広い有力者の家が配置された。口留(くちどめ)番所は、上横町の入り口にあり、開口は七間半である。本町の両がわに三八軒の町家が配置され、両横町の道はしに用水が通り、本町では中央に水路が通っていた(『県史』⑧七三三)。


写真8 旧北国往還松代通りの川田宿本陣・問屋跡 (若穂川田)

 川田宿は年々の水害に苦しんだが、とくに寛保二年(一七四二)の戌(いぬ)の水害では、東川田と町川田合わせての村高二一〇〇石余のうち八八〇石余が水害をうけ、前々からの荒れ地とともに村高の約八〇パーセントが水害地となった。宿場のあった町川田(元高一〇二一石余)は、宝暦七年(一七五七)の川欠けで有高が五四〇石に減った。そのため、松代藩は同村の保科村(若穂)への出作高一〇〇石にかかる諸役(夫銀・犬銀・漆運上など)を免じた。また宝暦七年からは、川欠け田畑の復旧までの年季引き三〇石をあたえられた。明和五年(一七六八)には村の人数が三五八人に減少し、地役・伝馬人足の触れ出しも困難となったため、さらに一〇年の年季で一五石の手当てがあった(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。この効果があって安永七年(一七七八)には人口は四二四人となり、天明二年(一七八二)には四三一人にまで増加をみた。たびたびの藩の手当てと、明和七年の千曲川の国役普請によって川の流れがよくなり、川欠け田畑もほぼ復旧できたようである(同前文書)。

 文化十二年(一八一五)の川田宿の家数は一〇〇軒、うち駅役家は六〇軒(人足四二人・馬一八匹)であった。宿役人は、文政十二年(一八二九)三月の証文によると、問屋のほかに年寄二人、重頭(おもがしら)二人がみられ、年寄の一人がもう一人の年寄と問屋らを相手に訴訟をおこしている。川田宿の年寄は、松代宿の検断の役割を果たしていたものと思われる。このときの内済証文によると、宿方助成金の二五両が問屋の手違いによって不分明となり、小前惣代らが職奉行所へ訴えていたものである。この事件は福島宿の問屋と年寄がもらいうけて内済(ないさい)となった。このころになると小前百姓らの力量が増し、問屋などの不正を批判するまでになっていた。

 文政十三年五月、某大名の一行が川田宿に宿泊した。川田宿の本町には本陣とも三九軒の家があったので、この武士たちは川田宿本町に分宿したのである。このとき割りふられた宿は本陣をふくめて二九軒である。本陣近隣の中屋・北村屋・泉(和泉)屋などには複数の家臣が宿泊している。本陣には藩主が宿泊し、その警護として一人が詰めていた(『県史』⑧七四五)。

 千曲川通船の詳細については後述する(三節五項「千曲川通船と犀川通船」)が、文政四年からは松代藩営の川船も飯山から松代城下まで通るようになった。大笹街道をひかえた福島宿についで川田宿の問屋も通船の積問屋となり、川田河岸(かし)は関崎渡舟場が使われた。天保十二年(一八四一)以降は厚連(こうれん)船も加わり、寛政二年(一七九〇)からの西大滝村(飯山市)の太左衛門船とあわせて千曲川の通船は三者による競合となった。積問屋が受けとる庭銭(手数料)は荷物ごとにこまかく決められていた。

 天保十五年(弘化元年)、新潟の積問屋から川田宿の「通船願人」又右衛門にあてられた取りきめには、二九品目の庭銭が明示されている(『県史』⑧七五一)。庭銭がもっとも安い塩・石灰類と、もっとも高い上茶・砂糖などとでは、同じ一箇(こおり)でも三倍もの違いがある。この差は荷姿や重量など扱いやすいか、扱いにくいかの差によるものと思われる。

 また弘化二年十月の「通船積荷物口銭取り替わし規定書」には、福島宿と川田宿が受けとる口銭と松代藩への冥加銭が取りきめられている。それによると、松代藩の会所への荷物は一駄につき永五文の冥加と両宿とも口銭六文ずつ、川中島行きの商人荷物や塩荷物は、冥加二四文、口銭一二文を受けとることになっていた(『県史』⑧七五二)。幕末期には街道の継ぎ送りによる口銭収入と通船の積荷改めの口銭が川田宿の収入となっていた。このため福島宿や川田宿には問屋のほかに「通船取締役」が置かれていた。

 通船の河岸として寛政年間から実績のあった福島宿は、同じ弘化二年に、善光寺町厚連と川田宿又右衛門を相手にして、新規通船の福島宿地内通行については福島宿への償い銭と福島宿への口銭を要求した。同年十一月の済口(すみくち)証文によると、福島宿地内を通る通船は上下とも、遠近にかかわらず一駄につき銭五文の償い銭と八文の口銭、計一三文ずつを差しだすことになった(『県史』⑧七五三)。