福島宿(須坂市)は、千曲川右岸の自然堤防上に位置し、渡船場もあり戦国時代から交通の要地であった。松代街道の一宿場として、南の川田宿から引きつぎ、布野の渡しをへて長沼宿へ継ぎ送った。また、東は仁礼(にれ)宿(須坂市)をへて上州大笹(おおざさ)宿(群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村)へと通じていた。
慶長十六年(一六一一)九月三日、松平忠輝の「伝馬宿書出」によって福島宿は正式に宿場に指定された。松代藩は、寛永三年(一六二六)四月、福島村問屋・肝煎にあてて、下筋からの通行荷物は川田宿と折半せよと命じている。正保(しょうほう)二年(一六四五)十二月、福島村が水害のためか退転(衰微)したので、松代藩は村高のうち在郷分三七九石のところを諸役御免にして伝馬役をつとめるよう申しつけた。福島宿は千曲川に面していたため、水害をうけやすく、元禄三年(一六九〇)には伝馬宿を移転している。また、宝暦二年(一七五二)にも福島宿の存続のために松代藩は高二六五石余の役を免除するなどの宿場助成策を講じた(『歴史の道調査報告書』Ⅲ)。
寛政二年(一七九〇)、千曲川通船の太左衛門船が西大滝村から福島村まで認可され、福島宿は下筋から大笹街道への重要な荷物継ぎ場となった。西大滝村から福島村まで一三里を七日がかりで塩などの荷物が運ばれ、福島宿で荷揚げされていた(『県史』⑧九六一)。文政四年(一八二一)から松代藩の通船も加わり、松代城下への船荷も福島地内を通るようになった。陸上荷物の減少から福島宿は地内通行の船荷改めをおこない、口銭を受けとることを許されていた。
本陣・問屋は竹内家が慶長年間からつとめてきた。明治二年(一八六九)の「宿役人給料書上」によると、宿役人は、問屋一人・年寄四人・帳付一人・人足指(にんそくさし)兼馬指(うまさし)一人・小使一人・助郷人馬触れ当て役一人と宿立人足(六五人)の世話役三人があがっている(『県史』⑧七六三)。福島宿への助郷村は、先にみたように八町・小河原(おがわら)(須坂市)と大熊(中野市)の三ヵ村、村高合三〇〇〇石余であった(『松代町史』下)。
布野の渡しは、福島宿から対岸の長沼宿への千曲川渡し船場で、松代領内七渡しのひとつである。正保の信濃国絵図では、船渡し水面五五間(約一〇〇メートル)、深さ一丈一尺(約三・三メートル)となっている。この渡し場は、北国往還善光寺通りの市村・丹波島間の渡し場が出水のため舟留めとなったときに、その代役として利用された。それだけ犀川とちがって水流が緩やかで、舟留めとなることが比較的少なかったのである。
正徳(しょうとく)五年(一七一五)二月二十七日、水内郡村山村(柳原)から布野村(同)へあてた「舟渡し御役の覚え」につぎのように記されている(布野共有)。
①奉行所の侍が来たときは、必要なものはすべて村山村と布野村で等分に勤める。
②賄いの人足・草履・わらじは村高に応じて負担する。
③舟渡し役につき郡役は御免となっているが、もし郡役があてられたら先年のとおり両村等分に勤める。
この取りきめは両村が寄り合ってきめたものである。ここにみられるとおり、布野の渡しは、村山村(天保郷帳村高六〇八石余)と布野村(同四一一石余)が共同で運営にあたっていた。舟二艘(そう)、水主(かこ)は一二人おり、その一人が船頭である(『朝陽館漫筆』)。藩からの給与はなく、繋(つな)ぎ籾を関係村々から集めており、飯山領神代(かじろ)村(豊野町)では、享保九年の村明細帳に舟賃として「村山へ二石六斗五升」の籾を出すと記し、長沼上町は弘化三年(一八四六)に布野村へ舟賃籾として三石を渡している(『長沼村史』)。
明和三年(一七六六)二月の布野村「諸人足賃銭定」には、舟渡し人足賃銭は一日四八文、舟引きあげ人足は三二文となっている。
安永九年(一七八〇)十一月、村山村と布野村とが渡し場前の往還橋普請にさいして取りかわした証文(布野共有)には、以前から舟渡しの御用は村山村が三分の二、布野村が三分の一の割合でつとめてきたこと、渡し場は千曲川の流れによって村山村地内へ移ることもあることなどが記されている。