長沼宿

839 ~ 841

長沼宿(長沼)は戦国時代末期から、越後春日山(上越市)と信州海津(松代)城下を結ぶ本通りに位置し、長沼城下の宿場として発展してきた。慶長十六年(一六一一)、善光寺通りの諸宿が指定されたとき、宿場は城下最南端の上町(かんまち)に指定された。

 正徳元年(一七一一)四月、中野代官金丸四郎兵衛から上町へ、「市村舟渡しが留まったとき、不慮に往来荷物が通り迷惑だと再三願いでているが、前から申し渡してあるとおり、脇道だから所あり合わせの人馬で継ぎ送れ。不足の分は近村から相対(あいたい)で雇い滞りなく働け」という人馬の調達法が示された(『長沼村史』)。その後、大通行のときは水内郡の権堂(権堂町)・富竹(古里)など一八ヵ村が助郷していた。


写真9 旧北国街道松代通りの長沼宿跡

 享保六年(一七二一)の千曲川大満水以来長沼宿は困窮し、たびたび代官所へ救援を訴えた。とくに福島宿からの荷物は、牟礼宿まで三里の山坂道を継ぎ送る困難があったため、中間にある神代村を新たな馬継ぎ場(宿場)に指定してもらうよう運動した。代官へ訴えたり、神代村へ交渉したり、江戸まで出訴したりの運動が実をむすび、元文四年(一七三九)九月末に評定所の裁決により神代村が松代通りの宿駅となった。

 このとき、城下の津野村・内町・六地蔵町・栗田町(長沼)と村山村(柳原)の五ヵ町村が長沼宿の加宿となった。駄賃については、それまでの長沼-牟礼間の駄賃を分けることになったが、長沼と神代のあいだは平地なので安くし、神代と牟礼のあいだは山坂のため割り増しとしてつぎのように定めた(『長沼村史』)。

 長沼~神代 一里八町三分  本馬 五三文   軽尻 二七文

 神代~牟礼 一里二八町三分 本馬 一〇七文  軽尻 六九文  人足 五二文

 宝暦十二年(一七六二)六月、長沼宿のある上町が富竹御用場へ差しだした明細帳には、宿場関係がつぎのように記されている(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。

「善光寺通りの丹波島の渡しが満水のとき通路がなくなるので、佐渡御用そのほか北国諸大名家の往来の馬継ぎ宿をつとめているので、以前から高掛かり諸役・足役ともに免除されている。当村には人馬がないので、同領の栗田町・六地蔵町・内町・津野村と松代領村山村が定助郷となっており、人馬が入用のときは当村から触れだし御用をつとめている。佐渡の運上銀・御蝋荷物そのほか北国大名方のお通りには、代官所村々から助(すけ)人馬を出してつとめている」。

 このときの長沼宿からの駄賃は表10のとおりであった。


表10 宝暦12年(1762)長沼宿からの駄賃

 隣の神代宿は、元文四年に松代通りの宿場に指定されたが、赤沼・河原新田(長沼)と中尾(豊野町)の三ヵ村を加宿とされただけで、助郷村はなかった。そこで何度か長沼宿の助郷村の一部を分けてほしいと訴え、明和九年(安永元年、一七七二)に神代宿へ一四ヵ村、八五九〇石余の助郷村が付けられた。そのとき長沼宿へも改めて一七ヵ村六六七〇石余の助郷村が割りあてられた。

 長沼上町の弘化三年(一八四六)の村入用をみると、総額三六三貫文余のうち宿場関係費用は一七三貫文で、これは全体の約四八パーセントにあたっている。そのなかみは、宿掛かり諸雑用に三五貫文余、公用通行の宿泊料への補填(ほてん)分五九貫文余、お定め馬の飼料として馬主へ渡す分一九貫文余(一匹に三両)などである。

 なお、長沼宿の本陣は西島家がつとめていた。宿場の街路中央の用水路は、昭和七、八年(一九三二、三三)の道路改修までその面影を残していた(『市誌』⑧旧市町村史編)。