善光寺平と松本平をむすぶ道

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中山道洗馬(せば)宿追分(おいわけ)(塩尻市)の道標には、「右中山道 左北国脇往還 善光寺道」と刻まれている。ここが北国西往還の起点で、善光寺の手前、篠ノ井追分で北国往還に合流する。善光寺までの道程は峠や山道の多い約二〇里(約七九キロメートル)。峠越えの多い道のため旅は容易ではなく、宿場間の距離は中山道よりも短く設定されていた。寛政五年(一七九三)、稲荷山宿(更埴市)は上田藩からの年貢地・伝馬役に関する問い合わせにたいし、「宝永四年(一七〇七)に善光寺が再建されたので、江戸表へ下向される公家様方はじめ、御本山、大名様方、御隠居、若殿様、御姫様、奥女中様方、尾張・紀州藩の御家中方、そのほか諸国の御家中方が善光寺参詣にまわってこられ、通行がひんぱんになった」と答えている。右の道標のように別名善光寺道とよばれるゆえんである。脇往還であるため公用旅行者の通行は比較的少なく、混雑をきらう商人荷物や西日本からの善光寺詣(もう)でのメインストリートとしてこの脇往還はさかんに利用された。

 街道とかかわる村々のようすを更級郡塩崎村(篠ノ井)から善光寺までの街道沿いに順にみてみよう。宝暦十三年(一七六三)、塩崎村庄屋治郎右衛門らが代官由利安助にあてた「三千石中諸品書上帳」には、つぎのように書かれている。「塩崎村往還通りは、稲荷山村入口境より御幣川(おんべがわ)村(篠ノ井)境まで一里五〇間(約四キロメートル)。宿場はないが、京都への往還である。近隣への里程は上田へ六里半、松代へ二里余、善光寺へ三里半、新町(信州新町)へ三里、稲荷山へ一二丁。高札場は一ヵ所。夜番小屋一ヵ所。夜番は上町・下町・角間組がつとめ、修復普請は村中でおこなう。各渡し場への繋ぎ籾(つなぎもみ)は、志川(更埴市)、小市(安茂里)、裾花川・市村(若里)、寺尾(松代町)、矢代(更埴市)、赤坂(篠ノ井)、松代馬喰(ばくろう)町作場へ納める。助郷、中馬(ちゅうま)稼ぎはないが、耕作のあいだ善光寺や松代・稲荷山・上田城下・小諸城下へ穀物を付けだして売りはらっている」。

 往還の掃除は、塩崎村のなかの長谷郷(塩崎・長谷・越)、中郷(四ノ宮・上町・角間(かくま))、北郷(山崎・平久保(へくぼ)・篠ノ井)の三ヵ郷でおこない、行き倒れなどは各郷で取りはからうことが、文政四年(一八二一)の村定めにみえる。道普請すべき往来は「北国より京都往還、北国より江戸往還、山中より稲荷山往還、山中より松代往還、石川より稲荷山往還、笹平より上田往還、山中より当村への往還(ただし、戸坂より蔵小路)、石川より当村への往還、長谷観音大門」の各筋で、道普請は「カンヤク(鍵役)」とよばれていた。街道にある橋の修復掛け替えは、さきの「三千石中諸品書上帳」によると「百姓月普請でおこなう。一ヵ所につき柱六本・ゆりけた五本・はり三本・ころばし六〇本・細木二〇〇本・そだ二駄・縄一駄・ねこ六枚」と書かれている。このうち、見六(みろく)・角間橋は天明五年(一七八五)に石橋となった。両橋の石とも、長谷組滝之入からそりで引きおろされ、地車で運搬された。同年四月十三日には見六石橋供養がおこなわれ、四ッ時(午前一〇時ごろ)から祈祷が始まり、渡りぞめは長谷寺住職、ついで代官、年八〇以上の山崎組佐五衛門、越組忠右衛門、篠野井下組の清四郎ほか三人、庄屋・組頭・長百姓とつづいた。石橋掛け代は三一両余であった。

 往還の道幅は、およそ三間余、天明年中の御巡見のときは三間二尺(約六メートル)積もり、人家の建つところでは双方の雨落のあいだを三間二尺あけるのが定法とされ、小路の幅はおよそ七尺(約二・一メートル)から九尺(約二・七メートル)までとしている。天保九年(一八三八)の記録では、上町から角間棒杭(ぼうくい)まで四間二尺(約七・八メートル)、そこから角間橋までは三間二尺、角間橋から見六橋までは四間二尺と道幅が交互になっていた。村内の小路で樹木などが繁っている場合は、小路の隣家が立ちあって切りとり、往来の邪魔にならないようにすることも決められている。また、長谷郷では、博打(ばくち)・諸勝負の禁制を破った罰則金を村の道普請に使うことが郷法で定められていた。

 街道の重要な印(しるし)のひとつに一里塚がある。北郷平久保の北のはずれには一里塚があった。文化九年(一八一二)の村絵図によれば、道をはさんで二個、北がわのものは五間三尺四方、南がわは四間四尺四方である。天保九年五月七日、巡見使の通行にさいし、松の植えつぎがおこなわれた。

 また、暗い夜道を照らすための街灯も街道には欠かせない施設であった。天保四年、塩崎村山崎北組・同南組、角間組、本町組の惣代らが庄屋あてに常夜灯の寄進願いを出している。それによると「私ども心願あり、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)へ敷六尺四方の石の常夜灯を建てたい。この場所は角間・山崎両組の境で八幡沖払堰、下柳払堰双方の石橋がある。通行にさいして闇夜には往来の人馬が橋を踏みはずすこともあるので、八幡堰の南縁の土手と、往来西寄りに常夜灯を建てたい。その場所については、双方立ち会いのうえ吟味してきめ、今後いっさい異論を申し立てはしない」と連印している。この場所は八幡脇堰と下柳堰との合流点であり、道が曲がっているため、夜には人馬が踏みはずして堰に落ちることもあったのであろう。角間・山崎両組の有志は無尽講をつくりこれを造立した。

 北国西往還と北国街道との分岐点、篠ノ井追分は千曲川の川筋の変更で何度かその場所が移った。天保十二年三月二十六日の「御用書留帳」によると、矢代村よりの舟渡(ふなわたし)がこれまでの唐猫(からねこ)御柳下(篠ノ井塩崎)から河瀬の変更で、松伏(まつぶせ)(同)と粟佐(あわさ)村(更埴市)境の二の杭下へ引きあげられた。そこで矢代尻(じり)より見通し、長谷観音大門までを新道とし、二十五日より新道普請に取りかかり、二十六日に完成し、旅人が通行を開始した。その結果、篠ノ井上町の小田井社鳥居前が江戸・京都の追分となった。これより前、天明五年(一七八五)九月には御幣川村(篠ノ井)に追分が移っている(『塩崎村史』)。


図3 篠ノ井塩崎康楽寺前の北国西往還を行きかう人びと (『善光寺道名所図会』より)

 篠ノ井追分で北国街道と合流した北国西往還は、御幣川・布施高田(篠ノ井)、原・今井・今里・戸部・上氷鉋(かみひがの)(川中島町)、中氷鉋(更北稲里町)をすぎて丹波島宿へと向かった。御幣川村境の見六橋から布施高田村境までは一一町一二間(約一二二一メートル)、道幅は四間二尺であった。御幣川村は、往来掃除御手引として四〇石分、追分・沓掛の助郷分九七石分の年貢が免除されている。御幣川村をすぎると布施高田村(篠ノ井)に入る。安政五年(一八五八)の布施高田村軒数をみると一一軒、街道に面していても街村をなすほどではなかった。

 原村は稲荷山-丹波島宿の中間にあり、幕府公認ではないが間の宿(あいのしゅく)として栄えた。文久三年(一八六三)ころと推定される「往来左右家別絵図」(『岡沢俊雄家文書』長野市博寄託)には、南原にある七〇軒の家屋の間取りが描かれている。このうち、街道西がわに三五軒、東がわに二八軒の家が建ち、全体の三分の二以上が往来にたいし妻がわを向けて建てられ、平がわを向けると判断できる例は七例にすぎない。また「ミセ」の記載がある家は二四軒で、間取りから「ミセ」と推察できる例をあわせると全体の約半数の三五軒になる。絵図には「家岸(がぎ)」という記述があり、これは「雁木(がんぎ)」とよばれる庇(ひさし)部分をさしている。往来にたいして「がぎ」を設けている例は四〇軒あり、うち三〇軒が「ミセ」をもっている。しかし、幕末期であっても「ミセ」が街道に沿って建ちならぶという景観ではなく、農家と町家が混在する町並みであることが読みとれる。

 今井村は、本郷(五四軒)のほか、北原(四八軒)・三沢(二一軒)・貝沢(九軒)・田中(一一軒)・荒屋(七軒)という五つの枝郷からなっていた。このうち北原だけが隣接する原村の宿(間の宿)と接して北国街道が通っていた。延享四年(一七四七)の「屋敷検地帳」では、北原だけに屋敷検地がおこなわれ、二七軒について間口が狭く、奥行きの長い町場特有の屋敷地が登録されている。文政四年(一八二一)の「今井村作間渡世書上帳」(『県史』⑦一二一一)には、商人・手工業者・輸送業者などさまざまな職業が書き上げられ、在郷町としての姿をみることができる。そのなかの茶屋「松屋」は、街道を行きかう旅人を相手に北原の大仏前で「川中島合戦古戦場絵図」を土産として販売していた。そのようすは『善光寺道名所図会(ずえ)』・『諸国道中商人鑑(あきうどかがみ)』にも登場する。

 明治二年(一八六九)の「明細御書上帳」(『上氷鉋区有』長野市博寄託)によると、上氷鉋村は道なりに堰が引かれ、その土手敷六口分、高八石九斗余が除地(じょち)となっていた。街道沿いには高札場があり、御法度(はっと)を記す板札五枚が保管されていた。遠国里数は京都へ九三里、江戸へ五五里、大坂へ一〇八里。矢代・赤坂・寺尾・関崎・市村・小市・裾花川の各渡し場に舟賃を納め、善光寺・稲荷山・松代の各市に市役を納めている。

 丹波島宿を出て、犀川にかかる市村の渡しを渡ると荒木村(芹田)である。渡し場から村の入り口には、文政三年(一八二〇)と文政六年の善光寺への常夜灯が建つ。文政三年の常夜灯は善光寺西町西方寺一五世の弟子清誉浄心が願主となって建てられたものであるが、文政五年にその地つづきに同末寺の随勝院が往来旅人の闇夜助けになると常夜灯の世話も兼ねて再建を願いでている(『荒木区有』長野市博寄託)。寛政四年(一七九二)の「村差出帳写」の絵図には、往還に沿って家並みが描かれ、その外がわに田や畑が広がり、用水堰は往還の東がわを流れ、村境には榜示杭(ぼうじくい)が立てられているようすが描かれている。ここから善光寺へは一八町(約二キロメートル)とあり、中御所村(中御所)・妻科村石堂組など(南・北石堂町)をへて善光寺大門町へと通じていた。