街道を行きかう人びとと領主の対応

848 ~ 853

一九世紀になると、庶民の旅の増加にともなって村にはさまざまな人がやってきた。商人や職人はもとより、回国や仏参の旅人、御師(おし)、ごぜや浪人もきた。村の夫銭(ぶせん)帳からは、村の世話になって旅をつづけた人びとのようすがうかがえる。表11は弘化三年(一八四六)の上氷鉋村の「夫銭帳」にみえる村に来訪した人びとである。たとえば、五月に善光寺参りにきた飯田(飯田市)の親子三人連れは、男親が道中大病をわずらい、五月十五日夕刻から同二十七日まで上氷鉋村の世話になった。村では男を医者にみせ、薬をあたえて介抱している。その費用として、薬代一貫二〇〇文と、親子三人の食事代・宿代二貫六〇〇文を支出している。このように、一宿一飯など村の厄介になったものは、座頭三六人を筆頭に、回国・巡礼者三二人、御師・社家二五人、仏参(善光寺参りなど)二〇人など一五一人に達した。このための村の費用は銭一八貫五一三文で、村の夫銭全体の二八パーセントを占めていた。過大な負担に音をあげた村は、文久元年(一八六一)、「村内物貰(ものもらい)禁札」の建札一二枚を三〇〇文でこしらえ村内各所にたてている。


表11 弘化3年(1846)上氷鉋村を往来した人びとへの足銭・札料

 近世社会体制のもとでの旅は決して自由なものではなかった。そのいっぽうで、旅を支える互助のシステムは相当発達していたといえる。万一病気になれば村の世話によって医者にみてもらうこともできたし、無事回復し出立するにあたっては、わずかながら村から心付けがあたえられた。また、村から村へと村継ぎで郷里まで送りとどける制度のあったことも知られている。こうしたさいの出費の負担は、村入用として集計され、最終的には村民に割りあてられる。行き倒れた病人はもしかすると自分のことかもしれず、旅人に寄せられる共感も少なくなかった。庶民の旅がこのように往還の平和と宿継ぎ・休泊の便宜によって保証されていることが、街道の公儀の道たるゆえんでもあった。宿場や旅籠(はたご)の茶屋には、公用以外の旅人でも「不審なるもの」でないかぎり、「一宿」することができた。旅人の「不審なるもの」でないことを証明するのが往来手形であった。往来手形に記されているように、途中で病気にかかったり、亡くなるものもまれではなく、先の夫銭帳からも旅先での病人の治療、在所への村送り、死者の埋葬などについてうかがうことができる。また、これに見あう村送り病人の受取状や病死人の仮埋葬の通知状、菩提寺への依頼状が残されている。

 こうした街道を行きかう人びとに関する文書をつぎにみてみよう。上氷鉋村に享保十五年(一七三〇)に出された塩崎知行所の「二十一箇条御法度書」には、つぎのような箇条がみられる。「往還の旅人には上下を選ばず、人馬を遅滞なく差しだすこと。また、道端破損のところがあれば速やかに直し、往来の妨げにならないようにする」。「往還の旅人が喧嘩・口論となったら、その場所に居合わせたものが止めに入り、手負い・死人が出たら双方留めおき、支配のものへ相談すること」、「牢人(ろうにん)にはいっさい宿を貸してはならない。ただし一夜限りならば許す。たとえなんびとたりとも、一夜以上の逗留(とうりゅう)の場合には支配のものに相談し、他領のものの場合には請けあわない。ただし、やむをえない事情がある場合には支配のものの指図を受けること」。万延元年(一八六〇)の「五人組帳前書」では、「往来の旅人でも一夜の宿はもちろん、逗留は禁止する、怪しいものがいたら、即刻村より追いだすこと、たとえ親類縁者であっても、長い逗留は庄屋へ断わること」と、村への逗留がいっそうきびしく制限されている。松代領内に出された通行人に関する御触れを一覧にすると表12のようである。


表12 往来通行に関する松代藩触書

 道の維持管理について、幕府は路面が傷(いた)んだら、すぐに直すように繰りかえし命じている。繰りかえし命じるということは、道を維持・管理することがいかにむずかしいかを示している。雨がふればぬかるみ、ところどころに牛馬の糞(ふん)が落ちているという風景は、現代でも昭和三十年代後半の高度経済成長以前には決して珍しい風景ではなかった。大がかりな道普請のおこなわれるきっかけのひとつに、将軍代がわりのさいの幕府巡見使の通行がある。塩崎村の記録では宝暦十一年(一七六一)、一〇代将軍家治(いえはる)就任にともなう巡見がおこなわれた。三好勝之助など三人の巡見使の通過は一行二〇人、四月二十日唐猫渡しより御幣川まで、ついで私領御巡見は一行六四人で四月二十四日におこなわれた。このときの村方出迎え御供人は、二十日三二人、二十四日六四人であった。この通行にあたり、村ではぬかり除けに砂を六尺通り敷きつめ、ぬかり場所には切り割りをして砂入れし、道をかまぼこ形に盛りあげ、橋はへりを割竹で押さえるという入念な準備をしている。大坂加番の大名通行のときは、野間(集落のそと、村境まで)・村内とも平らに掃除をするなど、幕府巡見使の普請と違いがあった(『塩崎村史』)。

 天保九年(一八三八)には、一二代将軍家慶(いえよし)の就任にともなう巡見がおこなわれた。上氷鉋村では土屋一左衛門一行御通行に先だって、四月十二日に領主役人が街道の見分をおこなっている。これにより、街道にはみでた各家の樹木の切り払い、橋の掛け替え、高札二枚の書き替え、雪隠(せっちん)の見苦しいものの壁塗りが申し渡された。ほかに、①昼夜の火の用心、②通行中に煙をたてないよう食事は夜のうちにこしらえること、③のぞき見はしないこと、④高話、高笑いを決してしないこと、⑤茶屋や店などへ草履・わらじを高く掛けないこと、外見が見苦しいものは外に置かないこと、⑥往来のものを高く腰掛けさせないこと、⑦戸口にすだれなどを掛けないこと、⑧障子窓の見苦しいものは張りかえること、⑨こどもはいっさい通りには出さないこと。このほか、無礼のないようにすること、⑩今井村では御休み宿で諸事手抜きのないように、と申し渡されている。このほか、巡見使からの質問にたいする受け答えのマニュアルも作られている(『上氷鉋区有』長野市博寄託)。

 日本で最初の測量図を作った伊能忠敬(いのうただたか)の測量隊も北国脇往還を通った。忠敬の測量隊は享和二年(一八〇二)と文化十一年(一八一四)の二回、市域を通過している。そのうち、文化十一年四月二十九日に稲荷山宿から善光寺宿まで通過した記録が残されている(同前区有文書)。測量隊は飛騨(ひだ)国から野麦峠を越えて信州に入り、筑摩郡藪原(やぶ(ご)はら)(木曽郡木祖村)から中山道をへて北国西往還を北上し、猿ヶ馬場峠を越えて四月二十八日八ッ時(午後二時)稲荷山宿の本陣に着き、宿をとった。途中猿ヶ馬場峠頂上付近の茶屋では、柏餅が名物だと記している。このとき上氷鉋村に申し渡された人足はつぎのとおりである。①御先へ箕箒(ちりとりほうき)もち両人、②案内のもの両人、③梵天(ぼんてん)持ち一〇人、④間竿(けんざお)持ち一人、⑤間縄(けんなわ)持ち六人、⑥見盤(けんばん)持ち両人、⑦御用筥(はこ)持ち一人、⑧絵図持ち二人、⑨小道具持ち三人、⑩小梵天持ち一人、⑪道具持ち一人、⑫笠持ち一人、⑬御札取(おふだと)り一人、⑭天文台持ち二人、⑮間繰持ち一人、⑯縄持ち一人の、以上三七人であった。ほかに以下の注意もあった。「人足のことは確定したものではなく変更もある」、「野休みもあるかもしれないので間繰を六枚ほど用意し、簡単な菓子を重箱に詰め、茶瓶なども用意すること」、「すべて人足は羽織を着けその上から帯をすること」、「梵天持ちは手順のよくわかったものに、札取りは字の書けるものにすること」、「昼弁当は自前ではないがだいたい見計らって用意する、宿についても心得、掃除などを申しつける」など、多くの人足が必要となるので万端間違いないよう注意している。梵天持ちは在地のよくわきまえたものを人足とするといった文言からも、伊能忠敬の測量作業は各地の多くの地方巧者(じかたこうしゃ)の協力を得てすすめられたといえよう。


写真10 『伊能忠敬測量日記』(重要文化財) 文化11年(1814)5月1日、忠敬は各地の測量のようすを克明に日記に記している。この日は善光寺制札前から測量を始め、北国街道を北へと向かった
(伊能忠敬記念館蔵)