慶安の裁許と江戸廻米

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大笹(おおざさ)街道は北国街道の脇往還(わきおうかん)として、善光寺平と北上州をむすぶ道である。永禄九年(一五六六)、武田信玄が上野(こうずけ)(群馬県)方面の攻略にさいし、仁礼口(にれぐち)(須坂市)関守(せきもり)に「鎌原(かんばら)筑前守重澄が一月にこの街道を馬五匹、人夫一〇人分の籾(もみ)をもって通過するので調べて通すこと」を知らせた通行手形があり(『信史』⑬三八頁)、早くからこの街道が重要視されていたことがうかがえる。

 交通路としての大笹街道は、北国街道松代通りから高井郡福島(ふくじま)宿(須坂市)で分かれて、千曲川の氾濫原(はんらんげん)の水田地帯を抜け井上(同)に出て、鮎川(あゆかわ)沿いに八町(はっちょう)(同)をへて仁礼宿へ向かう。仁礼宿に入る手前には、この道筋最大の馬頭観世音の石碑(約二・八メートル)が建っている。仁礼宿北の入り口関谷、南の浅間塚には松代藩の口留(くちどめ)番所が置かれ、ここを通過する荷品の監視を交替でつとめていた(三項「口留番所」参照)。

 ここから宇原川沿いに山道にかかる。道中の安全祈願や遭難人馬供養のため建てられた石仏群の見守るなか、くまざさの生い茂る道を九十九折(つづらお)りに登って菅平(すがだいら)峰の原(須坂市)へ出る。菅平高原の十ノ原、二本松、大明神沢、冬の荷物の中継点の中之沢、夏の中継点の渋沢(真田町)をへて鳥居峠(標高一三六二メートル)にいたる。大明神沢と渋沢には茶屋があった。

 峰の原には高さ約一メートルの土盛りをした土堤が残る。冬季間の吹雪(ふぶき)よけのため、高井郡仁礼宿と小県郡横尾・真田・横沢・大日向各村(真田町)が協力して嘉永元年(一八四八)に築いたものである。

 鳥居峠から上州に入り、田代(群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村)をへて大笹宿(同)に着く。大笹宿からは、中山道沓掛(くつかけ)宿(北佐久郡軽井沢町)にいたる「沓掛通り」と、鎌原(かんばら)(嬬恋村)、狩宿(かりやど)(吾妻郡長野原町)、須賀尾(すがお)・大戸(おおど)(同郡吾妻町)、三ノ倉(群馬郡倉淵村)、下室田(しもむろだ)・神山(同郡榛名(はるな)町)を通り高崎(高崎市)に出る「大戸通り」に分かれる。江戸に送られる荷物は、この先倉賀野河岸(くらがのかし)(高崎市)から船積みされ、利根川をくだることになる。信州がわではこれらの道を総称して大笹街道といい、上州がわでは仁礼街道とか信州街道とよばれていた(図4)。


図4 大笹街道の道筋

 このように険しい山越えの道であり、冬季間は雪に閉ざされる道であったが、大笹街道を利用すれば福島-沓掛間は二宿・一四里(約五五キロメートル)ですみ、北国街道経由の場合は一〇宿・二一里(約八二・五キロメートル)にもなった。江戸への日数も北国街道五日にたいし一日短縮できた。この行程の短さは、宿継ぎに要する経費の低減、迅速さ、荷物のいたみの少なさなどの利点をもたらし、公用荷優先の北国街道にたいして、商(あきな)い荷が中心の庶民の道となった。

 大笹街道の起点福島宿は松代領に属し、犀川の川留めのさいには布野(ふの)の渡し(柳原)で千曲川を渡河して長沼宿に通じ、南へは千曲川に沿って川田宿から松代へ通じた。福島宿のほぼ中央に「左草津・仁礼道 右松代道」と刻まれた道標があり、鉤(かぎ)の手に折れた町並みも宿場のなごりをとどめている。町の北端の堤防脇に「右小布施道・中野道 左北国街道・布野渡船・善光寺道」と基壇に刻まれた馬頭観世音の石仏がある。

 仁礼宿は、鮎(あゆ)川右岸の河岸段丘上にあり、問屋は浅間塚・常盤(ときわ)に上下二軒、中村に新問屋があった。本陣は上下の問屋が兼ねたといわれている。常盤にある羽生田(はにゅうだ)家は飯山藩の御城米問屋でもあり、領主米の江戸廻米の一端をになった。川東組穀仲間行司東川田村(若穂)善左衛門は、元治(げんじ)元年(一八六四)、玄米一二五駄を大笹・田代両村(群馬県嬬恋村)へ送るにあたって仁礼宿口留番所へ通行願いを出している(『県史』⑧七五九)。馬につける荷物は険しい峠越えということで、平地の八割から七割五分を一駄ときめ「山荷一駄」とよんだ。また、きびしい冬季の駄送には牛も使われた。

 慶安(けいあん)二年(一六四九)、北国街道・中山道の宿駅問屋らが仁礼・大笹の両宿を訴えた。「近年、善光寺平の荷物が本街道である北国街道・中山道を通らず、松代領分仁礼村より上州沼田領大笹村経由、山中の脇道を通って小諸領沓掛へ出る道を利用するため、本道の駄賃荷物が少なくなって難儀であるから、本道を通るように申しつけてほしい」という訴えであった。継ぎ立てによって生計を営む北国街道・中山道の宿場にとっては経済上大きな打撃だったのであろう。訴えられた仁礼・大笹宿は慶安三年四月に返答書を出した(『県史』⑧七二五)。その主な主張は、①提訴以前からこの街道は荷物送りを実施しており、松代藩によって口留番所も置かれていること、②川中島御蔵納(北信幕府領年貢米)や飯山・須坂・松代三藩の大名荷物は近い道を通るようになっており、六川(小布施町)・福島宿から仁礼・大笹を通って沓掛宿に出る道程は一四里ほど、いっぽう六川・福島から矢代を通って沓掛までは二三里であり、距離が短く便利であること、などであった。

 これにたいし翌年八月十四日、幕府評定所の裁許がくだった。「松代より西のものは北国街道を、松代より東のものは仁礼街道を通行せよ、ただし松代より東のものでも北国街道を通りたいものは自由」と申しつけるものであった(『県史』⑧七二六)。大笹・仁礼がわの勝利となり、大笹街道は街道として公認された。

 大笹街道が江戸時代も比較的早期に幕府の公許を得た背景には、さきの慶安の係争にもあるように北信諸藩、幕府領の年貢米の江戸への輸送の問題があった。幕府は、正保(しょうほう)三年(一六四六)まで一万石以上の大名に江戸での米の買い入れを禁じ、必要な米はそれぞれの領地から回送することを義務づけていた(『徳川実紀』)。生産された米は年貢米(領主米)と余剰米(よじょうまい)(民間米)になるが、前者は廻米として江戸へ輸送される分と、地元の商人に売り払われる分とに区分される。善光寺平の年貢米も、地元の城下町などで売り払われるが、残りは江戸廻米(江戸藩邸の飯米と売り払い米をふくむ)と北上州での売り払いに頼っていた。

 大笹街道を通った廻米は、松代藩で多いときは二〇〇〇駄に達し、正徳(しょうとく)六年(一七一六)・享保(きょうほう)七年(一七二二)・同十一年・同十八年・宝暦六年(一七五六)の五回が知られている。飯山藩では寛保(かんぽう)三年(一七四三)に八〇〇駄、須坂藩では、享保三年に四四六駄という数にのぼった。

 幕府領の場合は、寛永年間(一六二四~四四)から米の現物納をやめて金納が実施され、百姓は金納のため収穫米を善光寺・松代などの町場で領内の飯米や酒造米などに売って換金した。これらの需要を上まわった部分が北上州方面へ移出された。北上州が米穀に乏しい畑作地帯であったからである。

 上州に入った米は、北上州で売りさばかれるもの以外は倉賀野河岸から江戸へと運ばれた。元禄三年(一六九〇)と推定される倉賀野河岸の書付けによると、同河岸にあった一一軒の問屋が引きうけていた年貢米は、大名・旗本など二二家にのぼり、そのうち信州の大名は松代・須坂・飯山・上田・松本の五藩であった。享保十八年には、幕府が享保飢饉(ききん)による江戸市中の米価高騰に対処するため信州米も買いあげ、大笹村では三月三日から四月十一日までのあいだに仁礼村から沓掛宿へ送る一万一五三俵を取り扱っている(『群馬県史』⑪三八九)。

 このように大笹街道の成立期の特徴は、領主的商品流通にあった。また、輸送にたずさわった大笹・仁礼村は山間畑作地で、作物の生産性が低いため、交通輸送による現金収入をめざすものが多く、上州への最短距離という地理的事情を利して手馬稼ぎがさかんにおこなわれていた(四項「中馬と手馬」参照)。