一八世紀半ば以降、大笹街道の性格が大きく変わった。それは、善光寺平の煙草(たばこ)・菜種油などを中心とする商品生産が発展するにつれ、領主用輸送の比重が低下し、民衆用の商品流通路へと変化したことである。
高井郡がわから大笹街道へ運ばれた品目には、米穀・油・煙草・木綿類・塩・砂糖などのほか、幕末には繭・生糸・蚕種紙などがあった。上州がわから移入されたものは、輪竹・板木・湯の花・わらび粉・茶・金物・小間物類などである。
とくに高井郡で生産される菜種油の輸送は米につぐ数量を占め、鳥居峠は別名「油峠(あぶらとうげ)」ともよばれた。大笹宿から中山道沓掛宿あるいは上州大戸をへた油荷は、上州でさばかれるほか、倉賀野河岸で船積みされて江戸に送られた。江戸では「信水」(信州の水油)として人気があった。油は樽(たる)詰めにされて送られ、空き樽が上州から送り返されてきた。
菜種油の生産は、高井郡を筆頭に北信全体で高まるが、そのうち更埴・水内南部の川中島組油仲間は、文政十三年(一八三〇)の「油冥加(みょうが)人別帳」によると、総数七二人であった。原村(川中島町)が八人ともっとも多く、以下北高田村(古牧)と三輪村(三輪)が各四人、大塚村(更北青木島町)・石川村(篠ノ井)・吉田村(吉田)・笹平(七二会)が各三人などであった(丸田修治「川中島平の絞油業と善光寺組油絞仲間」)。油の販売について、嘉永二年(一八四九)の「川中島組油仲間ならびに荷負仲間規定書」には、「押し売り、押し買いはしないこと」、「水油・種粕(たねかす)などはなるべく下値で売ること」、「上田・小諸などへは荷を送らないこと」などが書かれ、油運びには専門の荷負行司がきめられていたことがわかる(『県史』⑦一〇八八)。
また、幕府が天保三年(一八三二)に油方仕法(あぶらかたしほう)の改正をおこない、地方での油絞りを認め、それを奨励したことにより、江戸へ向けての輸送がいっそう増えたと考えられる。
通行量の増加にともなう関係諸村の争いもみられた。元禄十二年(一六九九)、大戸通りの六ヵ宿の問屋は大笹宿が商品荷物を沓掛宿へ勝手にまわし、大戸通りがさびれてしまうと大笹・沓掛両宿を訴えた。いったんは大戸通りの要求がとおったが、同十五年飯山・須坂・松代三藩の江戸廻米と家中荷物は大戸通り、百姓作徳荷物は沓掛通りとなった。この裁決は、高井郡川東の村々には不利なのでふたたび争いになり、宝永四年(一七〇七)商人荷物はどちらを通してもよいこととなった。享保三年(一七一八)にも、綿内・保科をふくむ高井郡一六ヵ村は沓掛・大戸両道の自由な通行を求め奉行所へ訴えており、この争いはその後もしばらくつづいたことがうかがえる(『県史』⑧七三〇)。
明和四年(一七六七)、井上村(須坂市)の中馬(ちゅうま)稼ぎ人が中馬荷として認められていない灯油荷物を付けとおそうとしたことから争いがおこった。大笹・沓掛宿と大戸通りの六ヵ宿は損失をうけると幕府に提訴、その結果、明和六年に大笹街道は中馬付けとおしが厳禁とされた。これは大笹街道・大戸通りの宿場の宿継ぎを保護しようとした幕府の裁許であった。高井地方の百姓手馬の村々にとって、明和六年の裁許は大きな打撃となり、かれらは大笹街道での対立を避け、他への抜け道の開拓を志すようになる。
そのひとつが保科道である(図4)。この道は保科村(若穂)から菅平西組(真田町)にのぼり、中組・東組を横断して大笹街道に合流する。すでに鎌倉時代には善光寺と上州・関東をむすぶ重要な街道であり、『吾妻鏡(あずまかがみ)』の文治(ぶんじ)三年(一一八七)二月の条に、保科宿の遊女の長者の話がみられる。当時遊女が置かれるほど栄えた宿場であったことがわかる。
元禄十年、綿内村(若穂)の手馬と仁礼宿とのあいだで訴訟がおこった。仁礼宿がわが、「近在の村々が大笹へ輸送する場合、すべて仁礼宿を通るべきだ」とするのにたいし、綿内村手馬百姓は「仁礼宿を避けて保科道で大笹へ通行したい」と主張した争いである。この結果、綿内村から上州方面への荷物輸送は仁礼通りだけでなく、従来から通行していた保科道も正式に許可されている(『県史』⑧七二九)。
安永二年(一七七三)綿内村の百姓は、農閑稼ぎに馬一五匹を使って越後高田・上州大笹および信州上田へ産物を付け送っている。時代はくだるが、明治七年(一八七四)の綿内村の記録では、牡(おす)馬一九匹・牝(めす)馬四九匹と記載がある。綿内村ではこうした輸送に使われる馬を取り引きする市が開かれたことがあった。宝暦五年(一七五五)四月五日から十五日まで御役銀三〇〇匁を納めて馬市を開いている。市には芝居・軽業(かるわざ)・見世物類が出て人びとが群がった。しかし、市は一年でやめたと書かれている(『県史』⑧六二七)。
街道や峠を越えてくるものにはさまざまなものがあった。文化二年(一八〇五)、幕府は関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を創置し、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)の取り締まりにのりだした。そのため、関東の無宿・博徒は監視の目のきびしい中山道、北国街道を避け、大笹街道などを通って信州に流れこんできた。そこで、中野代官所は領内の二一人を取締役に任命して、支配全域にわたって博打(ばくち)の盛行や盗賊の横行に歯止めをかけようとした。上駒沢村(古里)吉左衛門、下駒沢村(同)直蔵も取締役に任用されている。無宿博徒の親分として知られる上州佐位(さい)郡国定(くにさだ)村(群馬県佐波(さわ)郡東村)の長岡忠治郎は、大戸の関所を破った罪で嘉永三年(一八五〇)大戸で磔(はりつけ)になった。
また、人や物資の往来にともない情報や文化も運ばれた。荷物の輸送路として発展してきた大笹街道でも、幕末の弘化三年(一八四六)八月には、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が帰国のさい利用している。このころになると、観光ルートとして善光寺への参詣や草津温泉への湯治の旅人でにぎわった。この道はまた古来、大谷不動尊(おおたにふどうそん)や米子(よなご)不動尊、四阿山(あずまやさん)信仰などで行者(ぎょうじゃ)の行き来する道でもあった。
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『上州草津温泉道中 続膝栗毛(ひざくりげ)』のなかには福島の渡し、仁礼宿、茶屋の挿絵(さしえ)があり、往時の大笹街道についてのさまざまを弥次郎兵衛・喜多八に語らせている。一九はこの取材旅行のため、文政元年(一八一八)四月に善光寺から草津温泉へ向かって仁礼宿を通過した。仁礼宿の羽生田家では自家製の酒でもてなしている。
また、国学者清水浜臣(しみずはまおみ)は文政二年、仁礼宿を通って草津に出かけて『上信日記』を記し、大笹街道のようすをこまかく描写している。仁礼宿問屋羽生田修平は、清水の門下となり国学を修め和歌をよくした。
信州から上州への人の移動としては、蚕種の買いつけ商人を見落とせない。鎌原桐山(かんばらとうざん)の『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』には、信州から上州・甲州・武州などへ蚕種の商い人が七、八百人行っているとしている。元治元年(一八六四)八月、更級郡下真島村(真島町)の源八は、上州高崎から武州高麗(こま)郡小川(埼玉県比企(ひき)郡小川町)までのあたりで蚕種の商売をするため、大笹の関所を通る鑑札の交付を郡奉行に願いでている。また、文化九年、今井村(川中島町)の仁兵衛は、三月から上州へ蚕種の商売に出て、四月下旬に帰国の予定であるから、留守中の御用は五人組の政五郎に申しつけられるようにと村の庄屋に願いでている(『県史』⑦一二三六)。