山中の生活道-大町道

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善光寺から安曇(あずみ)郡大町(大町市)方面へ通じる道は、多くは山道筋の道路で、善光寺平方面からは戸隠道・鬼無里(きなさ)道・大町道などとよばれ、大町がわからは善光寺道とよばれていた。こんにちのように正確な道筋ではなく、目的地をもって名前としていたため、いく筋もの道があった。前述してきた大笹街道もふくめて、行く先の地域で名づけられる街道の名称は、江戸を中心とする幕府の一元的な交通体系とは別に、それぞれの地域をむすぶ交通体系があることを示している。

 大町道の市域がわの起点は善光寺仁王門北がわで、大町がわの起点は大町の大黒町である。主な道筋を北からみていこう。

 ①大町道裾花川通り。仁王門からほぼ真西に西之門町・桜小路(桜枝町)・新諏訪(西長野)と直進する。湯福川の扇状地に位置する町場にはところどころ湧水(ゆうすい)がわき、地域の人びとの飲料水や酒水となり、旅人ののどをうるおした。諏訪神社の鳥居前を通り、頼朝山の中腹を登り、横棚(よこだな)(茂菅(もすげ))の静松寺(じょうしょうじ)わきを抜け茂菅に出る。ここから戸隠に通じる山道を北上し、鑪(たたら)・入山(いりやま)(芋井)、銚子口(ちょうしぐち)・上楡木(かみにれぎ)・折橋(おりはし)とすすみ、追通(おっかよう)(戸隠村)でふたたび裾花河畔に出て鬼無里(鬼無里村)・柄山峠(からやまとうげ)(野平峠)を越え安曇郡四ヵ庄(しかじょう)(北安曇郡白馬村)へ出る。現在の国道四〇六号に一部重なるが、茂菅から小鍋(こなべ)(小田切)・下祖山(しもそやま)(戸隠)へと裾花川沿いに道がむすばれるのは文久二年(一八六二)、松代藩士鈴木行貞がこれまでの小道を拡張し完成させてからのことである。

 ②大町道土尻(どじり)川通り。善光寺から南下し妻科の鶴ヶ橋で北国街道と分かれ、小柴見(安茂里)で裾花川を渡り、朝日山のふもとを小市(安茂里)へ抜け、犀川の左岸を通り、笹平(七二会)へと向かう。このあいだの犀川峡谷はつねに崖(がけ)崩れなどの危険をともなう難所であった。道は笹平で犀川と分かれて土尻川沿いに現中条村、小川村、北安曇郡美麻(みあさ)村をへて大町にいたる。この道はほぼ現在の県道長野大町線と重なる。③大町峰道。大安寺(七二会)の西で土尻川を渡り、長井(中条村)から土尻川の南岸沿いの山の峰づたいに中条、越道(こえどう)(信州新町)から立屋(たてや)(小川村)を通り、湯ノ海(美麻村)で②の大町街道と合流し大町にいたる。俗に「つるね道」とよばれた。④新町(しんまち)道。大安寺で土尻川を渡り、尾根筋の道を長井へのぼり、山上条(信州新町)をへて橋木、左右(そう)、大塩(美麻村)、三日町(大町市)から大町にいたる(図5)。


図5 大町道の道筋 (『信州の街道』より)

 以上の東西の道にたいし、戸隠・鬼無里方面から松代・篠ノ井方面へと南北に横切る道があった。①戸隠から坪山(戸隠村)を通り、下峠(しもとうげ)(小田切)から小野平・栃(とち)久保・馬神(まがみ)(小田切)を通って小市へでる馬神道。②先の土尻川通り大町街道の上祖山(戸隠村)から分かれて南方(みなみかた)神社(本殿県宝)の東を通り、地蔵峠(中峠)を越えて平出(ひらで)・五十平(いかだいら)・倉並・赤坂・保玉(七二会)から小市の渡しへ、さらに千曲川の寺尾(松代町)の渡しを渡って松代城下をめざす松代往来とよばれる道。途中笹平に出て笹平の渡しを渡り、山布施(篠ノ井)を越えて稲荷山(更埴市)に出ることもできた。

 なお、明治前期の大町道の道幅は一〇尺(約三メートル)、戸隠道の道幅は長野町を除くと約七尺(約二・一メートル)と北国街道の約一七尺(約五・一メートル)とくらべるとかなり狭いことがわかる。また、同期の市域の山中では多くの牛や馬が飼われ、生産活動を助けるとともに輸送にも使われていた。牛は当時の安茂里村が牡牛四〇頭で、馬は七二会村の牡馬一六一頭がもっとも多かった。

 大町街道沿いの村々は、起伏の多い複雑な地形の山間地帯で冬季は雪も深く、水田の少ない雑穀中心の畑作地帯である。こうした山中を代表とする大豆・麻・紙・炭の産物は、山中の定期市で換金または日用品と交換されるか、仲買人をへて十二斎市の善光寺・松代、九斎市の稲荷山に運ばれた。こうして村々から市に向かって道が通じた。そこで、市と街道を行きかう産物を中心に大町道のようすをみてみよう。

 大町道沿いには、九斎市の新町(信州新町)、六斎市の境(同)・笹平(七二会)で市が立った。市域では笹平がにぎわった(写真12)。真田信之は寛永三年(一六二六)、笹平上町・下町双方の市立(いちだ)てを許可している(『県史』⑦一〇〇〇)。その後、市日が守られず何度か争論になっているが、享保十七年(一七三二)には、六斎市から九斎市へと発展し、江戸中期以降山中での商品取引が活発になっていることを裏づけている(『県史』⑦一〇一〇)。市で取引された品は、移入品の塩・四十物(あいもの)(塩魚・干魚類)・石(穀)物・鍋(なべ)・釜(かま)・太物(ふともの)(綿・麻織物)・繰綿(くりわた)(種を除去した綿)、移出品として桑・薪などがみえる(『県史』⑦一〇〇五)。さらに天保四年(一八三三)には糸市が新設され、笹平・新町の二つの市で、松代藩全体の一割前後が取引されるほどの活況を呈していた。『むしくら日記』では、善光寺大地震後の笹平村のようすを「村のなかで耕作して稼ぐものはまれで、みな何かしらの商売をしている。地震でいったんは難渋したが、だんだん仮小屋を建てた店を開き、小間物・荒物・肴(さかな)や菓子など商いをしている。笹平で商いが始まったので山中筋ははなはだ便利である」と書きしるしている。


写真12 笹平の市神 この市神を中心に市が立った

 笹平には犀川にかかる野渡しがあり、藩公認の七渡しに準ずる渡しとして船一艘(そう)を給与され保護されていた。この渡しの冬季の土普請には、大安寺・岩草・笹平(七二会)、中条・五十里(いかり)・念仏寺・梅木・青木・奈良井・地京原(じきょうばら)・伊折・長井・専納(せんのう)(中条村)、夏和・竹生(たけぶ)・花尾・和佐尾(わさお)・椿峯(つばみね)・瀬戸川・古山・小根山・久木(小川村)、上野(うえの)(戸隠村)、山平林・安庭(やすにわ)(信更町)、山布施(篠ノ井)と、水内・更級両郡の二六ヵ村もの村が入料の割合をきめて普請にあたり、広範囲の人びとに利用されていたことがわかる。

 文化十一年(一八一四)に取材のため大町から新町道を通った十返舎一九も、松本から善光寺への近道としてこの道を利用し、近ごろはこの道も旅人の通行が多くなり、道筋には霊験あらたかな寺々があり珍しかったと、文政二年(一八一九)の『続膝栗毛 善光寺道中』に記している。

 善光寺周辺で消費される薪や炭は戸隠山や北山から戸隠・大町道を利用して善光寺に運ばれていた。天保五年(一八三四)、箱清水村の九右衛門が炭問屋を善光寺門前に開業したいと大勧進代官へ願いでた(『市誌』⑬三三八)。それによると、「夏向きは、五、六里の道を運び、売れ残ればもう一泊か二泊もしなければならないこともある。また、冬は道も悪く馬も難渋し、小売値も高くなってしまう」として「町内の東之門町か横沢町に炭問屋を開き、夏の道のよいときに運べば、値段も安く、相場も安定し、買い方にも都合がよく、山中の炭焼渡世のものがみずから荷駄で販売する難渋を救い、炭の安定供給にもなる」としている。

 嘉永四年(一八五一)ころの史料では、大坂の泉屋弥兵衛らが松代中町の富屋茂作を通じて山中の小豆二〇〇石を笹平から牛島(若穂)まで犀川でくだし、千曲川を水内郡西大滝(飯山市)、越後十日町(新潟県十日町市)、長岡(長岡市)を通り新潟湊(みなと)(新潟市)まで二〇匁で運び、そこから大坂へと運ぶ計画もあった(『七二会村史』)。ちなみに犀川通船は天保三年に松本-新町間で公認されている(五項「千曲川通船と犀川通船」参照)。

 また、日用品の一部はよそから村に行商が売りにきた。富山の薬売りは年一、二回、越後(新潟県)や越中(富山県)の売薬人は春から初夏にかけてやってくる。西山から七二会あたりで盆に食べる「エゴ」は、糸魚川(糸魚川市)から行商にきた(『市誌』⑩民俗編)。正月の鰤(ぶり)など肴(さかな)荷物は糸魚川商人が大町道を通って運んでいる。

「日売(ひう)り」・「振売(ふりう)り」とよばれ、荷物をかつぎ、声をあげながら売りあるく行商人も村にやってきた。文政十一年、橋詰村(七二会)の平左衛門は七月七・二十一・二十六・二十七の四日、同じく直蔵は八月六日に一日、坪根村(七二会)の七郎治は七月十九・二十七日の二日、冥加金を払って揚酒(あげざけ)売りに歩いている(『県史』⑦二七一)。安政二年(一八五五)、五十平(いかだいら)村(七二会)の吉郎左衛門は、橋詰・倉並・坪根・五十平の四ヵ村で用いる揚酒の振売鑑札を頂戴したいと村の三役人に願いでている(『七二会村史』)。

 商人荷物の輸送が活発になると、往還筋に荷継宿(につぎしゅく)が置かれるようになる。元禄七年(一六九四)、水内郡入山村(芋井)の兵左衛門は高四〇石分の諸役免除で、麻の荷宿肝入(にしゅくきもいり)をいいわたされた(『県史』⑦一〇〇四)。荷宿は本街道の問屋に準じる機能をもち、各村から集められた産物を預かり、そこから善光寺などへ荷を継ぎ送るための中継地とされ、馬士を手配し馬宿(うまやど)の機能もはたした。街道筋の問屋が幕府公認の助郷制度に支えられていたのにたいし、荷継宿は助郷は指定されず、輸送力はもっぱら農民の駄賃稼ぎに頼った。先にふれた山中の牛馬の数はこれを裏づけている。

 馬方が使う馬も、春先には代掻(しろか)き馬(うま)として大挙して大町道を往来した。文化十四年、水内郡山穂刈(やまほかり)(信州新町)と立屋(たてや)・小根山・瀬戸川(小川村)の各口留番所役人から松代藩への願書によると、「山中の村々から、松本領大町村(大町市)や松川村(北安曇郡松川村)周辺の村々へ、毎年三月二十二日ころより四月八日ころまで代掻き馬としておよそ七、八百匹の馬が貸しだされている。近年その貸料がとどこおり、さらに馬主は貸馬村まで遠方のため集金にも苦労している。そこで、大町村に馬宿をつくることをお許しいただき、馬一匹につき冥加銀二分五厘ずつを上納させるようにしたい」と申しでている(「勘定所元〆日記」)。

 近代になると、山中の商荷物の輸送には「馬方(うまかた)」とよばれる専門の輸送業者を利用した。馬方は産物を馬の背につけ、早朝暗いうちに村を出発した。大町街道裾花川通りの横棚(芋井)静松寺付近には馬方などが休む東西二軒の茶屋があったという。麻や紙の集散地であった桜小路(桜枝町)には、馬方茶屋が一軒、蹄鉄屋(ていてつや)が一軒、荷物置場が三軒あった。昼前後に長野に着いた馬士は仕事をすませると、村人から頼まれた注文書により買い物をし、夜出発して翌朝村に帰り、注文の品物を配ったという(『市誌』⑩民俗編)。