信仰の道-戸隠道

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信州の霊山として戸隠(戸隠村)の名が広まると、遠方からの道者や参詣者が善光寺参詣とあわせて戸隠を訪れるようになった。江戸中期以降旅日記にも善光寺参りと戸隠詣(もう)でがセットで書かれるケースが増えてくる。とくに宝永四年(一七〇七)の善光寺再建のときの回国出開帳(でがいちょう)はそれに拍車をかけた。

 長野市から戸隠へ通じる参道は複数知られるが、ここでは表参道とよばれる三本の道を中心にみてみよう。

 ①善光寺西がわ横沢町から湯福神社の脇を塩沢へと登り、大峰山と葛(かつら)山のあいだのしぐれ沢を通り七曲(ななまがり)とよばれる急坂を登って飯縄(いいづな)神社里宮のある荒安(あらやす)(芋井)に出る。江戸時代後期、荒安には茶屋が二軒あり、名物の団子を売っていた。そこから入坂(にゅうざか)を越えると左手に大座法師池(だいざほうしいけ)がみえ、海抜一〇〇〇メートル前後の飯縄原に出る。かつてはここに一ノ鳥居があり、これをくぐって大久保(戸隠村)から戸隠宝光院(宝光社)・中院(中社)・奥院(奥社)へと通じていた。②善光寺仁王門を西に折れ、桜小路(桜枝町)・新諏訪から葛山山麓(かつらやまさんろく)の鑪(たたら)・桜・上ヶ屋(あげや)・軍足(ぐんだり)(芋井)、一ノ倉池をへて飯縄原・大久保あたりで前記①の道に合流する道。③新諏訪から桜で分岐し広瀬・入山(芋井)、銚子口(ちょうしぐち)・上野(うえの)(戸隠村)をへて戸隠へと通じる道。②・③の道をつなぐ大久保の茶屋・上野間の道は前述の大町道へと通じていた。


図6 戸隠道の道筋 (『信州の街道』より)

 なかでも長野から飯縄原を越え戸隠にいたる①の道は、もっとも利用され、飯縄原には表参道であることを示す大きな一ノ鳥居が建っていた。この鳥居はもと石造の鳥居で、高さ二丈(約六メートル)あまりあったという。文化二年(一八〇五)、戸隠本坊家来中村庄左衛門と衆徒徳善院は葛山七ヵ村にたいして、「当山一の鳥居を石にて建てかえたい。ついては最寄りの神領には適当な石がないので、葛山七ヵ村入会原山にある休み石の御無心を申し入れたところ御得心いただきかたじけない。この石割りについては秣場(まぐさば)には差し障りがないようにし、石を取ったあとも繕うようにする」と一札入れている。完成したのは文化五年四月二十八日とある。この鳥居は弘化四年(一八四七)の善光寺大地震で崩壊し、木造の鳥居に改められた(『芋井村史』)。今も旧鳥居の石材の一部が残っている。

 この鳥居から戸隠山神領に入る。一ノ鳥居から宝光院へは四三町(約四・七キロメートル)、中院へ五三町(約五・八キロメートル)、中院より奥院へ三〇町(約三・三キロメートル)といわれ、一町(約一〇九メートル)ごとに高さ約五三センチメートルの町石(ちょうせき)が建っていた。町石は参詣者や旅人に目的地までの距離の目安を示すために建てられ、戸隠のものは宝永年間(一七〇四~一一)に建てられたといわれる(『戸隠村における金石文』)。現在はそのほとんどが失われ、わずか数ヵ所に残るのみであったが、平成十年(一九九八)に戸隠村の有志によって新たに中社までの町石が建てられている。一ノ鳥居から七町目には大久保の茶屋が二軒あった。ここは街道のかなめで、柏原・牟礼方面からの戸隠参道と合するところにあたり、戸隠のほか上野・鬼無里方面との物資の中継所としてにぎわい、盛時には馬小屋五棟、一日馬八〇頭が往来したこともあったという。

 参道沿いには、多くの馬頭観音・道祖神・道標がみられる。なかでも道標は文字によって行き先・道路名などが示されたものである。設置者は遠方からの地理に不案内な人びとのために、文字を読んでくれることを期待して建てた。そのためひらがなで書かれる場合が多く、通りのよび方、行き先の地名からは当時の人びとの認識できる地理的な広がりが反映されている。県内外の道標に多くみられる「善光寺」・「ぜんくわうじ」の道標は、遠くは美作(みまさか)国津山城下(岡山県津山市)にあり、巡礼者などがここから善光寺をめざしていたことがわかる(写真13)。


写真13 「信州善光寺百五十五里」の文字が刻まれた道標
(岡山県津山市)

 戸隠山への参詣のしかたを元禄十四年(一七〇一)の「両界山参詣掟(おきて)条」(『県史』⑦二一一三)によってみよう。まず、道者(参詣者)が入山するさいは、①出羽湯殿山(ゆどのさん)(山形県東田川郡朝日村)行きと同様に身を清めて登山すべきこと、②道者一人につき関銭(せきせん)として二四文を納め、宝光院神前で関札を受けとること、③山先達は三院から出し、道者一人につき大儀銭一〇文を納めること、④大堂(奥院)参詣者は本坊役が関札改めをおこなうこと、⑤同参詣の日限は六月十五日から七月二十日までとすること、⑥三院のどこかの坊に泊まり、かならず三院の神前に参詣させること、⑦本坊祓沢(はらいざわ)と大堂の二ヵ所に関所をたてて改めること、などが定められた。このほか、善光寺や柏原など登山口にあたる場所からの駄賃、荷物運賃が規定されている。ちなみに善光寺への軽尻(からじり)駄賃は一五〇文、五貫目以上(約一九キログラム)を乗せると二二四文。柏原へは軽尻が一六〇文、五貫目以上二四二文。大堂ふもとへ軽尻七五文、五貫目以上一一三文であった。天明六年(一七八六)から寛政五年(一七九三)の「善光寺宿増駄賃書上」(『県史』⑦二〇一三)には、善光寺から戸隠まで軽尻駄賃は二四九文とあり、約八〇年で三六パーセント上昇したことになる。また、坂の多い戸隠道は、本馬(ほんま)(四〇貫の荷物を付ける馬)はなく、他の街道の駄賃とくらべても割高で、軽尻一匹一里の単価も善光寺-丹波島間四三文、善光寺-長沼間七四文にくらべて三倍から五倍近くした。人足一人の賃金も平地では一里につき二七文前後のものが、戸隠では約四六文と倍近かった。

 奥院からさらに登った「裏山」の高妻(たかつま)山・乙妻(おとつま)山への参詣については、寛政八年八月、裏山参詣旅人および案内人にたいする申し渡しが出された(『県史』⑦一三六三)。三院衆徒は、①参詣旅人の案内はていねいにし、つぶさに演説を聞かせること、②道筋にある参詣所、小池休屋(やすみや)あたりは清潔に保つように心掛けること、③小池休屋など破損していた場合には速やかに申しでること、④参詣所に散銭(さんせん)などがあった場合には見かけしだい取り集め、衆徒方へ預けること、⑤休屋内でたき火をしないこと、⑥道筋参詣所などで大小便はみだりにしないこと、とくに休屋あたりは見通しもよいので決してせず山陰でおこなうこと、などが申し渡されている。

 戸隠山の「本坊ならびに三院衆徒分限帳(ぶんげんちょう)」(『新史叢』⑭二〇五~二六八頁)によると、三院(宝光院・中院・奥院)衆徒それぞれが、中部・関東・東北地方にわたって数百軒から数千軒におよぶ檀家をもち、毎年祈祷(きとう)・配札にまわっている。明治五年(一八七二)の旧広善院越志(おし)家の配札数は一八〇〇枚にのぼった。同家の配札圏は善光寺平北部の現豊田村・三水村付近から篠ノ井・上田市・小諸市、さらに南下して南佐久郡の甲州境まで配るコースと、現中条・小川両村を通って大町市へぬけ、北安曇郡を北上して越後(新潟県)に入り、糸魚川筋から中頸城(なかくびき)郡に入るコースの二手に分かれて、街道筋の村々に広がっていた。前者は戸隠街道を善光寺へくだり、北国街道を中心とした道筋にあたり、後者は大町道土尻川通りから千国(ちくに)街道を北上し越後へとまわった。配られる御札にはさまざまなものがあったが、「五穀豊饒(ほうじょう)」・「川除(かわよけ)」・「虫除(むしよけ)」・「風祭幣帛(へいはく)」など農業神・水神が主として信仰されていた。

 戸隠は雨乞いの神としても信仰されていた。奥院お種池の水をもらい、それを地面につけることなく村に持ち帰ると雨が降るという。享保十八年(一七三三)、更級郡塩崎村(篠ノ井)では五月十九日に田植えが始まり、二十六、七日ころまでに終わりそうだと領主陣屋に報告している。しかし、その後雨が降らず、田に地割れができはじめ、村では七月四日から六日まで村の社で雨乞い祈願をしたがいっこうに雨の降る気配がない。そこで、七月十一日に戸隠山坊中に頼みお種池の神水をもらいうけ、十二日から三日三晩、村の山伏妙法院に雨乞いの祈祷をしてもらった。神水の効験(こうけん)か十二日夜から十三日にかけて雨が降ったが、焼け石に水の状態であったという(『小林家文書』長野市博蔵)。戸隠から更級郡塩崎村までの最短路は、小市(安茂里)から下峠を通る馬神(まがみ)道か、保玉から地蔵峠を通る松代往来が使われたと思われる。

 塩崎村のほかにも、市域で戸隠から雨乞いの水をもらったことが確認される村には、水内郡の南長池(古牧)、栗田(芹田)、更級郡の古森沢(川中島町)、中沢・岡田(篠ノ井)、灰原(信更町)、埴科郡の柴(松代町)がある。水内郡広瀬(芋井)、更級郡綱島(青木島町)、上石川(篠ノ井)では、戸隠を雨乞いの神として信仰していた(『県史民俗』④)。また、戸隠講を組織している地域は、芋井・西平(浅川)、田子(若槻)、東横田(篠ノ井)、四ッ屋(川中島町)、丹波島(更北丹波島)、東条・柴(松代町)がある(『市誌』⑩民俗編)。各講では年に一度戸隠に代参した。

 では、少し視点をかえて、戸隠を訪れた文人墨客(ぶんじんぼっかく)についてみてみよう。戸隠を訪れた主な文人の記録は表13のようである。善光寺から①の参道を通って戸隠にいくケースが多いが、荒木田久老(ひさおゆ)のように鑪(たたら)・桜・上ヶ屋・軍足(ぐんだり)(芋井)をすすむコースや、青木昆陽(こんよう)のように牟礼(牟礼村)から戸隠裏街道とよばれる道を通る例もみられる。いずれも善光寺から戸隠へは、一泊以上の行程で登山し、荒木田久老の『五十槻(いつき)園旅日記』からは道の険しさ、寒さ、残雪の多さが読みとれる。出された食事はそば切りが多い。旅に関するエピソードとしては、天保二年(一八三一)に大原幽学が戸隠を訪れたとき、戸隠中院の十王院に宿をとり、夕方七ッ時(申刻(さるのこく)、午後四時ごろ)をすぎて奥院へ参詣し、夜五ッ時(午後八時ごろ)に宿に帰り、宿の主(あるじ)から中刻以降奥院へ詣でると天狗のたたりがあると聞かされ驚いている。慶応元年(一八六五)に登山した幕末・明治前期の画家、河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)は戸隠中院の格天井(ごうてんじょう)に竜の絵を描くことを頼まれたが、仕事なかばで下山、その途中朝日山で狼(おおかみ)に会ったことを記録している。


表13 戸隠に関する紀行文・地誌など

 また、十返舎一九の書いた往来物とよばれる手習いの教科書のなかに、『讃岐金毘羅(さぬきこんぴら)往来』・『肥前長崎往来』・『奥州名所往来』などと並んで、文政五年(一八二二)に刊行された『善光寺・戸隠参詣往来』がある。内容は江戸本郷(東京都文京区)の追分を出発し中山道を通り、軽井沢の追分から北国街道を善光寺・戸隠へといたる。途中街道沿いの名所が紹介され、戸隠では梨(なし)を献じて虫歯平癒を願うという風習が書かれている。手習いの教科書としても使われていた。