口留番所の配置と役割

876 ~ 881

幕府は寛永十二年(一六三五)六月の武家諸法度で、みずからが設置した関所以外を私関(しせき)とし、新規の津留(つどめ)もふくめてこれを禁止した。これにたいし、多くの大名領では新規以外の津留番所の容認を最大限に活用し、穀類や特産物が領国外へ流れるのを防止するとともに、領内外からの人の出入りを取り締まる口留番所(くちどめばんしょ)をもうけた。

 松代藩の口留番所の設置は、真田信之が重臣金井善兵衛に番所の監督を命じた書状から、寛永二年であったと推定される(『県史』⑦一五八七)。それ以前については不明だが、口留の文言(もんごん)は、元和二年(一六一六)七月の越後高田城請取の在城条目に、「代官・口留以下にしっかり指図すること」、「口留のものに、往来の人に話しかけないように指示すること」などの条目がすでにみられる(『信史』22三六一頁)。

 その後、寛永十八年から二十一年にかけて全国をおそった飢饉(ききん)は、領内からの百姓の逃散(ちょうさん)や欠落(かけおち)防止、米穀確保のため口留番所を広範に存在させることとなった。松代藩ではこれより前の寛永十四年十月、真田信之の法度案で、①奉公人を他領へ出すこと、②売買・質物(しちもつ)の男女を他領へ出すこと、③不審者の止宿、④他領・自領からの往還人などの取り締まりについて、口留番所において通切手(とおしきって)を改めることなどを定めている(『信史』27一五二頁)。

 口留番所は、おばんや・御番所・穀留番所・沓留番所(くつどめばんしょ)・関所などともよばれ、その設置場所は表14・図7のとおりであった。更級郡七ヵ所、埴科郡二ヵ所、高井郡二ヵ所、水内郡九ヵ所、計二〇ヵ所に置かれた。鼠宿(ねずみじゅく)口(坂城町)・川田口(若穂)・吉田口(吉田)・腰(こし)口(西長野)・小市(こいち)口(安茂里)を除いて多くは他領への抜け道の多い山中にもうけられている。山中から里方への出入り口にあたる腰、上ヶ屋(あげや)(芋井)の番所は山中の特産物である麻・漆(うるし)の実などの出入りを取り締まった。関屋口(松代町豊栄)は上田領へ通じる地蔵峠を、田野口口(信更町)は松本領へ抜ける太田原通りを、有旅(うたび)口(篠ノ井)は山中からの松代往来の監視をおこなった。小市口は犀川を渡る小市の渡しを改め、町川田口は千曲川を渡る関崎の渡しと須坂領への人や荷物の改めをおこなった。吉田口は善光寺領への物資を改める。このように各番所は交通・物流の要所を押さえて設置されている。須坂・飯山領境に番所が置かれていない点も特徴であろう。


表14 松代領内口留番所


図7 松代領内の口留番所

 つぎに、口留番所の任務をみてみよう。正徳三年(一七一三)五月、松代藩は任務を箇条書きにし、つぎのように各番所に命じている(『県史』⑦一五八九)。①先の取りきめどおり昼夜おこたりなくつとめる。変わったことがあったらすぐに報告する。②女の出入りはきびしく改める。③穀物は通し切手がなければ通さない。脇道を通過する怪しい荷物は差しおさえる。④酒荷物は入れない。脇道を通ってもちこむものがあるかよく気をつけ、近郷まで監視し見つけしだい取りおさえて報告する。⑤漆の実を他所へもちだし、商売しているものがあると聞くが、荷物をおさえて注進せよ、とする箇条である。勤勉な番人には褒美(ほうび)を取らせると書かれている。

 文政九年(一八二六)十月の口留番所への尋答書(じんとうしょ)には、新たに馬喰(ばくろう)・中馬(ちゅうま)改めの項目が加わり、酒・漆の実の改めがゆるめられている(『県史』⑦一六五四)。

 その後、嘉永六年(一八五三)二月の「御口留御番所勤方御書上」には、近世後期の任務が列挙されている(『県史』⑦一七〇〇)。①穀物は領内から出すときは奉行の裏書きで通す。他領からの入穀は買い主が裏書きを願い、その手形で通す。中馬稼ぎのものは、中馬稼ぎ公認の証明書である御印鑑で通す。松代領内の手馬稼ぎのものも同様である。②馬商人は、領内の場合には道橋奉行の焼印および御厩(おうまや)役所の裏書きで通す。他領の馬商人は、何郡何村の馬喰が、だれのところへ通るという手形を提出するはずだからそれを受けとる。③他領から入る酒荷物は、買い主から裏書きを願って通る。④漆の実はどこからどこへつけ通すかを聞いて通す。⑤女改めは姿風俗の変わっているものは格別に念をいれて調べる。他領へ縁づく女も格別華美のものはよく調べる、などである。以前の規定にくらべ、女改め、酒・漆の実の改めについてさらに緩和されていることがわかる。幕藩体制の確立以後は、しだいに領域経済の維持に重点が置かれ、許可のある商品にかぎり通し手形により藩外移出が認められ、その監視が主な任務となった。

 つぎに、改めのおこなわれた項目について具体的にみてみよう。穀改め・穀留は、凶作・飢饉などのさい、自領の米穀を確保するため他領への移出、販売を禁止する政策である。松代藩では近世初頭から口留番所による穀物通過の統制をおこない、自領の経済圏の確立をめざしていた。とくに江戸前期と幕末の万延元年(一八六〇)以降は穀留が強められた。「通切手」・「手形」とよばれる口留番所の通過書には、穀物商人の名、輸送する穀物の種類と量、用途、入手先、輸送先などが書かれ、願書提出者と村役人が署名した。年貢米など穀物の移動は、村の運営とも深くかかわっていたため村役人が署名し、穀物商によって番所を通過していたのである。

 天明六年(一七八六)、飢饉によるきびしい穀留のもと、ひそかに口留番所を付けとおり上田領へ穀類を移出するものがあるとの風聞に接した郡奉行は、そのようなことがないよう鼠宿・仁礼・吉田の各番所にきびしく申しつけ、付けとおすものがあれば村名を聞き訴えると記した請書を出させている(「勘定所元〆日記」)。この年、松代藩では米穀確保のため酒造半減令を出している。

 天保五年(一八三四)、善光寺宿の代表は、まわりを松代領に囲まれているうえ、吉田村の口留番人など四人が穀留人と称して四ヵ所に穀留番所を設け、非道の穀留をしたため宿場内に米が入らず困っていると寺社奉行に訴えている(『長野市史』)。天保の飢饉にさいし松代藩では、天保四年に米の穀留令を、翌五年には麦の穀留令を出し、領内物価の高騰を押さえようとしたのである。吉田村に置かれた番所は、明治ころまで「穀留の家」ともよばれ、主に善光寺領に入る米穀の改めをおこなった。単に北国街道のみでなく、長沼往還道や大笹街道へつづく布野道の物資改めや人改めも可能な場所であった。

 人改めは当初穀改め同様厳重であった。とくに女・奉公人・職人の他出は、その身柄についてきびしく改めがおこなわれた。その改めも幕末に向かうほどゆるめられる傾向にあったが、ペリー来航ころから浪人・悪党・盗賊などの出入り改めが強化されている。有旅(うたび)口留番所の史料でそのようすをみてみよう。まず、嘉永七年(安政元年、一八五四)十月二十二日、異国船到来につき口留番所の出入り改めを厳重にするよう命じられている(『桑原村誌』)。同年、番所役人案右衛門は上田領の今里・戸部・上氷鉋村(川中島町)の小作百姓二、三十人が凶作につき年貢の引き下げを求め、上田へ訴えでようとはかり、塩崎村方面に向かったとの風説を聞き郡奉行に注進している(『更級埴科地方誌』③上)。安政三年(一八五六)には、盗賊・強盗があった場合には夜番や立番をもうけ厳重に取り締まり、怪しいものをみかけたら拍子木(ひょうしぎ)、高声(たかごえ)でよびたて、縄掛け、手木(てぎ)をもって集まり捕らえるよう、更級郡の他の番所とともに命じられている(『桑原村誌』)。