馬稼ぎと明和の裁許

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江戸時代の陸上輸送は、原則として街道の宿場に用意された伝馬を利用することになっていた。伝馬はほんらい、幕府公用の人や荷物を運ぶために宿場に常備されている人や馬で、宿場ごとに継ぎ立てで使用した。民間の荷物を運ぶときは、公用運送が空いているときにかぎって有料で利用できたが、そのさいも宿場ごとに別の馬に荷を付けかえ、そのたびに口銭(こうせん)(手数料)、庭銭(にわせん)(保管料)を問屋に、駄賃を馬子(まご)に払わねばならなかった。さらに駄賃は荷主と馬子の相談できめる相対(あいたい)賃銭で、伝馬輸送はコストのかさむ陸運をさらに高くつくものにしていた。

 山国信濃では河川も急で、船による物資の大量輸送がむずかしく、千曲川の水内郡西大滝(飯山市)と高井郡福島(須坂市)とのあいだで通船が公認されるのは寛政二年(一七九〇)、松本-新町(信州新町)の犀川通船は天保三年(一八三二)と、いずれも江戸後期からであった。大量輸送に適した舟運が利用できない内陸部で、すこしでも割安に、効率よく物資を運ぶための工夫として利用されたのが手馬(てうま)・中馬(ちゅうま)である。これは百姓が自分の馬や牛を使って副業に駄賃稼ぎの荷物運びをおこなったもので、宿場のない脇往還を主に利用した。ほんらい手馬は、自分の馬の背に生産物を積んで城下や町の市に出し、その帰りに村で自給できない品物などを購入して帰るというたてまえだったが、しだいに専業化し、中馬とよばれるようになった。中馬は目的地まで荷物を付けとおすため、宿継ぎ輸送にくらべて、より速く、安く、減量や荷いたみをさせずに運ぶことができた。


図9 明和裁許で中馬が公認された道筋

 こうした手馬・中馬は古くからおこなわれていたと思われる。慶長十八年(一六一三)、松平忠昌によって越後高田城下(上越市)の小町の問屋には塩と船宿(ふなやど)・信濃馬宿(うまやど)の独占が許可されている。信濃馬宿とは、信州の行商人および牛馬をひいた人を宿泊させる問屋のことで、信州と越後を荷物を積んで行き来する手馬の姿がうかがえる。正保(しょうほう)二年(一六四五)には、今町(直江津)で信濃馬宿を営むことが禁止されている(『新潟県史』⑥)。

 慶安三年(一六五〇)に公許となった大笹街道では、早くから現金収入をめざす近隣百姓の手で、手馬・中馬がさかんにおこなわれていた(一項「大笹街道」参照)。

 こうした中馬にたいし、公用伝馬役の見返りとして商用荷物いっさいを継ぎ送りし、運賃を稼ぐ権益をもつ宿場問屋は、権益侵害だと領主に訴えた。中馬の先進地である伊那街道では、寛文十三年(一六七三)の幕府裁許により、街道での中馬の付けとおし慣行が公認された。ついで元禄七年(一六九四)の紛争では、問屋がわが手馬付けとおし荷物の取り締まりを訴えたのにたいし、産地よりの諸荷物の付けとおしは自由とし、中馬とこれを支援した松本商人の主張が認められている。宝永三年(一七〇六)には中馬同士の争論がおこった。伊那郡の中馬仲間が筑摩郡の中馬の伊那街道通用差しとめを訴えでたのである。その結果、どの道筋のどの荷物も通し馬、継ぎ馬双方勝手とされ、筑摩郡中馬がわの勝訴となった。

 ますます活発化する中馬輸送にたいして、宝暦九年(一七五九)、信州全体を巻きこんだ大紛争がおこった。伊那街道一六宿問屋は上下伊那の中馬仲間と口銭の徴収をめぐって争い、松本・飯田町商人は中馬がわを支援した。幕府は実態をとらえるため勘定所役人を派遣し、信州全域、さらに中馬の輸送圏である隣接諸国の実態調査をおこなった。

 北信では、宝暦十三年、信州・隣国の中の実態調査にきた幕府役人にたいし丹波島宿・矢代宿がつぎのように答えている(『更級埴科地方誌』③上)。それによると、「中馬といういい方は聞いたことがなく申し上げにくい」としながら、「一人で馬一匹を追い、作った米穀類を近在ならびに善光寺周辺から付けだし、上田辺で売りはらい、戻り馬で自分遣いの塩・茶を付けかえるものを中馬とよんでいる。塩は二俵付きまたは一俵を半分にして一駄(四〇貫、約一五〇キログラム)とし、茶も同様に軽荷にて付けかえる。商い荷物を中馬が運ぶことはなかった。中馬通行のとき宿問屋は米穀類は一駄につき二文、戻り荷の塩は二文、茶は五文の口銭をとる。また、牛は木曽路より一人で四匹から五匹追い、板類を善光寺近辺に付けこし、帰りに塩を付けて帰る。口銭は古来より取らない」とのべている。

 こうした広域調査をへて、幕府評定所から明和元年(一七六四)中馬裁許状がくだされた(『県史』⑨四六)。松本-飯田から名古屋・岡崎・吉田(豊橋市)方面を往復する中馬は、ほぼ全面勝訴し、他の街道では扱う荷品を限定し、問屋に口銭を支払うこととし、中馬を認める裁許であった。裁許状は中馬稼ぎの村と馬数を指定し、信濃一円の八郡、六七八ヵ村、一万八六一四匹の中馬が公認された。市域では、松本から上田・善光寺までの北国脇街道、小諸・善光寺間の北国街道で公認された。このとき認められた中馬の数は北信では表15のとおりである。この更級・埴科・高井三郡の中馬稼ぎの村々は、上田領と幕府領に限定され、松代領の村々は皆無である。また、佐久・水内両郡の中馬はまったく記載されていない。当時、中馬という呼び方は中南信のもので、東北信ではまだ使われていなかった。これらの、中馬数が皆無か少ない郡は幕府の調査にたいして、中馬同様の稼ぎがおこなわれていたにもかかわらず、中馬として申請をしなかったものと思われる。


表15 明和元年(1764)の裁許にみられる北信の中馬数

 この中馬によってどんな物資が運ばれていたかは、街道によって異なっている。評定所裁許によって、北信に関係する街道では輸送品目と口銭がつぎのようにきめられた。

  一北国往還を善光寺町まで

     小諸 田中(小県郡東部町)海野(同) 上田 坂木 上戸倉 矢代 丹波島

    右道筋中馬往返荷品

      米穀類 塩 茶 肴(さかな) 立具類 鉄物(かなもの) 集物(あつめもの)

     右口銭 米穀類の外一駄に付四文宛

  一北国脇往還を善光寺町まで

岡田村(松本市) 苅谷原村(東筑摩郡四賀村) 会田(あいだ)村(同) 青柳(あおやぎ)村(同郡坂北村) 麻績(おみ)村(同郡麻績村) 稲荷山村 丹波嶋村

    右道筋中馬往返荷品

      米穀類 炭 薪(たきぎ) 酒 油粕(あぶらかす) 楮(こうぞ) 紙 たばこ 茶

ただし、たばこ・紙菰包(こもつつみ)小口を見させ候分、ならびに茶一俵を二ッ伐(ぎり)にいたし候は中馬付通し、

莚包(むしろつつみ)小口をかがり、ならびに茶丸俵は継ぎ荷に致すべし、

     右口銭  米穀類・炭・薪・酒の外一駄に付三文宛

 右の裁許によると、北信では中南信とくらべて、公認された街道と荷品の種類がより限定されている。また、品物の梱包(こんぽう)が煙草・紙はこも包にし小口を見せ、茶は一俵を二つ切りした場合にかぎり中馬荷と認められた。中南信にくらべて北信で中馬荷が通れる街道とその品目が限定されたのは、北国街道や北国西往還など幕府公認の街道が多く、宿駅問屋を維持しようとする幕府の意図がはたらいたとみられる。

 このほか、中山道倉賀野河岸(くらがのかし)(高崎市)までは、中馬付け送り荷が米穀類と酒の二品、戻り荷が塩と茶の二品にきびしく制限された。市域では大笹街道、保科道などからこれらの品が倉賀野へと運ばれた。

 こうして許可された中馬村には、安永二年(一七七三)ころから腰につける鑑札(中馬札)が渡され、中馬稼ぎ人はその鑑札一枚にたいして運上金を納めるようになった。文政五年(一八二二)から同十一年までの「更級郡戸部村清右衛門等中馬腰札(こしふだ)請書ならびに渡付書」(『県史』⑦一九七一)では、中之条代官所から戸部・今里(川中島町)、岡田(篠ノ井)、中氷鉋(更北稲里町)、稲荷山(更埴市)の五ヵ村にたいして、肴・集物腰札六枚、鉄物腰札一枚が渡された。五ヵ村では通帳(かよいちょう)・請取書をつくり、毎年三月に売買仕切書をもって金納することを定めている。これらの札は、各村の中馬稼ぎ人が一枚の腰札を期日をかぎって借りうけ、五人ぐらいで順番に使いまわした。この腰札を携帯しなければ中馬と認められず、荷物を差しとめ継ぎ荷扱いとされた。


写真14 中馬鑑札 天保7年(1836)2月
(『安茂里史』より)

 明和の裁許から三年後の明和四年、更級郡大塚村(青木島町)の市郎左衛門などは、水内郡妻科村後町組(西後町)、更級郡丹波島(更北丹波島)、同郡上布施・御幣川(おんべがわ)・二ッ柳(篠ノ井)、埴科郡矢代・雨宮(あめのみや)・粟佐(あわさ)(更埴市)の八ヵ村にたいし、中馬願いのため江戸表にいる惣代(そうだい)への金子が滞りがちであるとして、中馬願いの割合金の督促を職奉行に願いでている(青木島町 町田重夫蔵)。これにより、裁許からわずか三年で、中馬稼ぎの申請をしなかったと思われる松代領からも中馬公認の願いが出され、負担金を出しあって惣代を江戸に派遣していたことがわかる。

 つづいて安永二年、幕府御普請役が中野(中野市)の旅宿に村役人を呼びあつめ、中馬村数についての吟味がおこなわれた。領内の七五ヵ村(じっさいは七七ヵ村)から中馬稼ぎ願いが出された。郡別にまとめると以下のとおりである(「勘定所元〆日記」)。

 更級郡  赤田・三水(さみず)・中山新田・有旅(うたび)・二ッ柳・石川・布施五明(ごみょう)・柳沢新田・羽尾(はねお)・須坂・若宮・八幡(やわた)・志川(しがわ)・郡(こおり)・桑原・向八幡(むかいやわた)・上山田・上平(うわだいら)・布施高田・会(あい)・御幣川・原・田野口・氷熊(ひぐま)・山平林・安庭(やすにわ)・下小島田(しもおしまだ)・大塚・真島・小松原・下氷鉋(しもひがの)・灰原・吉原・広田(ひろだ)・新山(あらやま)・網掛・力石・上五明(かみごみょう)・下横田・東福寺・西寺尾・牧野島・下市場・北河原・青池・上小島田・日名(ひな)・鹿谷(かや)・山布施・高野・牧島・石川・大岡

 埴科郡  内川・千本柳・上徳間・粟佐・東寺尾・森・鼠宿(ねずみじゅく)・新地(しんち)・東条(ひがしじょう)・岩野・土口(どくち)・雨宮・小森・森・倉科・生萱(いきがや)

 水内郡  新町・山上条・久保寺・水内・三輪・北上野(きたうわの)・吉田

 高井郡  八町

 このうち、四七ヵ村は作間稼ぎとして所産物(ところさんぶつ)のほか商荷物も付けとおし、残りの村々は所産物のみを付けとおすと願いでている。

 村ごとの具体例をみると、高井郡綿内村(若穂)では、馬一五匹が農業のあいだに越後高田(上越市)、上州大笹(群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村)、当国上田(上田市)へ産物を付けおくっていると幕府普請役に報告している(『県史』⑧六四四)。「更級郡羽尾村等二七ヵ村中馬改書上帳」(『県史』⑦一六一七)によれば、松代領更級郡では若宮村(戸倉町)の三七匹を筆頭に、赤田村(信更町)二一匹、上山田村(上山田町)一七匹、有旅村(篠ノ井)一五匹など二七ヵ村、二〇八匹が中馬として書きあげられている。赤田村の場合には、馬二一匹のうち、一七匹は信濃国内で中馬稼ぎをおこない、二匹は国内から越後方面に中馬稼ぎに出かけるとある。また、約半分の一二匹は一年を通して中馬稼ぎを専門とし、残り七匹は冬・春の農閑期に中馬稼ぎをし、残りの二匹は作間稼ぎであって、中馬稼ぎはいっさいしていないと報告し、手馬(作間稼ぎ)と中馬の区別をしている。

 寛政七年には、更級郡の塩崎村(篠ノ井)手馬八匹、今里村(川中島町)手馬一〇匹、上氷鉋村(同)手馬五匹、中氷鉋村(更北稲里町)手馬一一匹をもつ手馬持ち四八人は中馬札がなく、雪国でことに寒気が強い場所ゆえ早春の農間稼ぎとして善光寺から上田近辺への米穀・大豆・煙草・野菜の付けだしと、戻り馬での茶・塩・その他集物の付けとおしをする手馬稼ぎを願いでている(『県史』⑦一九九一)。寛政九年には、松代領五七ヵ村が寺社奉行に中馬稼ぎの公認を願いでている(『市誌』⑬三七一)。願書には、五七ヵ村は千曲川・犀川沿いの村々であり、川欠け亡所により生活が困窮しているためと書かれている。松代領では商い荷物を付けおくる中馬稼ぎも手馬とよんでいた。

 このように、明和元年の裁許では、北信でわずか一九ヵ村、二一五匹しか公認されなかった中馬の公認願いは以後も続出する。中馬の公認の有無にかかわらず中馬同然の稼ぎは増えつづけていった。手馬・中馬増大の背景には、日帰りできる一〇里内外の距離に、善光寺町・松代町の十二斎市(じゅうにさいいち)、中野町(中野市)、須坂町(須坂市)、新町村(信州新町)、矢代宿・稲荷山宿(更埴市)の九斎市、小布施村(小布施町)、福島宿(須坂市)、境町・笹平村(信州新町)、原村(川中島町)、飯山町(飯山市)、栃原(とちはら)村(戸隠村)、鬼無里村(鬼無里村)などの六斎市がたったほか、常設店舗もしだいに増加したという商品市場の発展があった。このように、国外遠距離まで往来する中南信の中馬にくらべ、比較的近距離の稼ぎを中心としたため、当初みずからの行為を作間稼ぎ的な手馬と考えていたと思われる。しかし、じっさいには手馬と称して中馬同様の稼ぎをおこなっていた。

 明和の裁許によって安定化するかにみえた争論は、中馬のいっそうの広がりにより新たな紛糾を生み、繰りかえされて幕末にいたる。こうした中馬のさかんな活動は、商品流通の動脈となって、各地に煙草・木綿・水油・生糸や繭などの商品生産を活発化させる誘因ともなった。