一八世紀すえから一九世紀にかけて、各地で商品作物の栽培や手工業が発達して商品流通がさかんになると、それを輸送する中馬の活動はいっそう活発になり、その荷物をめぐって中馬と宿駅、中馬同士、中馬と手馬との利害が対立し紛争が絶えなかった。
明和の裁許から三年後の明和三年(一七六六)、下戸倉宿(戸倉町)問屋が手馬の荷物を差しおさえる事件がおこった。松代領四四ヵ村の付越仲間(つけこしなかま)は、四四ヵ村はすべて百姓手馬であると主張し、領内付けとおし自由の内済にもちこんだ(篠ノ井石川 南沢将男蔵)。
寛政三年(一七九一)、松代領更級郡上山田村(上山田町)の小八が上田からの戻り馬に武州(埼玉県・東京都)の藍(あい)荷物と炭二俵を付けてきたところ、幕府領坂木宿問屋に藍荷物は宿継ぎ立て荷物であるとして差しとめられた。そこで翌四年、松代領の更級・埴科両郡付越仲間四四ヵ村は、坂木宿問屋四五右衛門らを訴えた。宿場問屋らは訴えにたいし、つぎの三点をあげて反論した。①手馬荷品として米穀類・煙草・桑・楮(こうぞ)・牛蒡(ごぼう)などを作って市場に出し、帰りに鉄物(かなもの)の鎌(かま)・鍬(くわ)・鍋(なべ)などや塩・茶・肴を付けてもどることは差しつかえないが、藍物は百姓手馬の荷品ではない。②四四ヵ村は中馬稼ぎではないはずなのに、中馬に似た稼ぎをして宿場助成を奪っている。③四四ヵ村は土から生じたものはすべて付けとおしてもかまわないと主張し、善光寺から小諸前後の市で鉄物・肴・蓑笠(みのかさ)・木綿布・麻布など宿継ぎ荷物を「集物(あつめもの)」として荷主と相対で買ったりして付けとおしている。とくに問題となったのは、明和裁許にある「集物」の規定をどう受けとるかであった。
この訴訟は所領を越えた争いであったため幕府評定所の扱いとなり、つぎのように裁許がくだった。「両者ともに明和年中の御裁許をよく守り、上山田村など四四ヵ村より、桑・楮・煙草・野菜の類および手作りの品を手馬に付けて上田町または善光寺町へ行き、売りさばいた帰りの戻り馬に自家用の塩・肴の類を少しずつ買い求めて馬に付けるとき、莚(むしろ)に包んだものは小口を包まず品物が見えるようにしておくこと。そして往還を通るときには口銭を支払って通行すること」。手馬による桑・楮・煙草・野菜・塩・茶・肴の類を宿駅に口銭を払って付けとおすことは既得権として認められる形となったが、明和の裁許で承認された中馬以外の百姓手馬による交易は否定され、この点は、四四ヵ村の敗訴に終わった(『県史』⑦一六二四・一六二五)。
寛政の幕府裁許によって、中馬と手馬が分けられたことで、敗訴となった更級・埴科両郡、さらに高井・水内両郡の村々は危機感をつのらせ、さっそく中馬願いを出すことになる。赤田村(信更町)谷五郎は寛政四年十一月、領内でとれた油粕(かす)・酒粕・糠(ぬか)の類を最寄りの市場へ付けだし、鉄物・塩・茶・肴・建具類を付けもどる中馬稼ぎの願書を職奉行所へ提出している(『県史』⑦一六二六)。こうして中馬・手馬・宿駅の争いは、寛政期に一つの大きなピークを迎えた。
文政九年(一八二六)、塩荷をめぐって松代領の丹波島宿と手馬がわとのあいだで争いとなった(『県史』⑦一六五二)。赤田村など松代領内の村々が善光寺町からの戻り馬で定法どおり四文の口銭を払って塩を付けとおそうとしたところ、宿場がわは四〇文を要求したので手馬がわが職奉行に訴えた。丹波島宿は、①近年中馬稼ぎ人は手前塩といつわって、宿継ぎ荷物の塩を数十匹に付けとおして宿場の助成を奪っている。②松代表への塩は御町馬で口銭を取らないたてまえであったが、文化十三年(一八一六)の出入りで職奉行から年に金一〇〇疋(ぴき)(金一分)、松代検断から金一〇〇疋を受けとり付けとおしている。③山中筋の村々が小市舟渡しを利用して宿継ぎ荷物を付けとおしている。④塩崎村や横田村(篠ノ井)周辺の村々は、一〇年来七二文の手数料を支払って善光寺町へ青物荷物を小市経由で付けおくっている、と主張した。争いの結末は明らかでない。
天保五年(一八三四)幕府領坂木宿では、松代領の手馬が木綿・細美(さいみ)(織り目の粗い麻布)・麻・細引(ほそびき)・鞍縄(くらなわ)など二駄を付けとおそうとしたところを差しおさえた。宿場がわは、差しおさえた品々は宿継ぎ荷物であると訴え、手馬がわは寛政の裁許にあるとおり、一駄に満たない手作りの品々であると反論した。その結果、いずれの荷物も一駄に満たないものは付けとおしとする。荷印のある菰(こも)には包まない、ということで内済となった。
このとき宿場がわは、訴訟にかかる費用を分担する「訴訟雑費議定書」を取りかわしている(『県史』⑦一六六九)。これによると、小諸宿から丹波島宿までの七宿(田中・海野で一宿、上・下戸倉で一宿)で、宿役人二人の江戸への訴訟費用として一人一日銀五匁と、往来軽尻駄賃一匹分を割りふりして分担しようときめていた。こうした取りきめは、膨大な江戸での訴訟費用を分担するとともに、宿場同士の連帯を深めた。
同様のことは中馬がわでもおこなっている。安政四年(一八五七)の「上戸倉村等六ヵ村中馬稼規定」(『県史』⑦二二三二)では、差し障りが生じたら、仲間・行司とよく話しあい、村々の役元に相談すること。春・秋の観音講の寄り合いで村役人と相談すること、を定めている。こうして村と中馬が一丸となってことにあたる態勢がつくられていた。
このように、農民が自家消費分を上まわる余剰作物を手馬によって積極的に近隣の市場に出すようになると、幕府は既存の交通体系の組み替えをおこなわざるをえなくなり、いくたびかの裁許により宿駅がわの既得権は弱められていった。
中馬・手馬に使われる牛馬は、年一回から二回、日をきめて開かれる市で売り買いされた。松代領では、元和八年(一六二二)以降、更級郡戸部村・原村(川中島町)、水内郡小市村(安茂里)の各村で開かれた(『松代町史』下)。『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』によると、「馬市は十月一日から十五日まで開かれる。馬には領内から出る馬と、越後・奥羽・能登から馬喰(ばくろう)が引いてくる馬とがある。市へ出す二歳馬の値段は上三両、中二両三分、下二両二分で、購入先は松代・松本・飯山領内である」とある。慶応三年(一八六七)、小市で馬市が開かれた。市中馬売買惣元帳によると、四月一日から開かれた馬市では、九九匹の馬が集まり、九六匹が売れた。馬をひいてきた馬喰一五人のうち、一三人は羽州秋田地方の人で、二人は越後の人である。購入者は筑摩・安曇両郡の人が五一匹と半数を占めていた(安茂里 長嶺睦蔵)。
慶応四年(明治元年)六月、宿場の問屋と役制(人馬の負担)が廃止され、新たに伝馬所がもうけられた。明治五年(一八七二)中牛馬会社設立が認められ、長野市域では長野町の旧問屋中沢与左衛門を頭取に、笹平(七二会)、新町(信州新町)、綿内(若穂)、篠ノ井(篠ノ井)、田野口・氷ノ田(ひのた)(信更町)、松代(松代町)に荷扱所が設置された。こうして中馬・手馬は会社組織として継続し、鉄道の開通まで主要な輸送機関として利用された。