陸上交通路にくらべて、大量に、安く、積み替え回数が少なく物資が運べる舟運は、信州でも早くから注目されていた。千曲川通船については、慶長十二年(一六〇七)二月、大久保長安が京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)に通船の可否について川筋の検分をおこなう役人の派遣を依頼している(『信史』⑳二三三頁)。ついで、寛文(かんぶん)元年(一六六一)幕府によって信濃川開削(かいさく)工事計画がなされた。その目的は、北国諸国の米その他の荷物を、河口の新潟湊(みなと)から小諸付近までさかのぼらせ、碓氷(うすい)峠を越えて利根川・江戸川などをくだして江戸に直送しようとする遠大な本州横断計画であった。これには、北国米の上方輸送を独占してきた敦賀(つるが)(福井県敦賀市)・小浜(おばま)(福井県小浜市)などの港津と沿道宿駅が反対し、実現はみなかった。幕府は寛文九年にも北陸・奥羽の幕領米を信濃川をさかのぼらせ、江戸へ送る方法を加賀藩などに問いあわせ、川筋の検分をおこなっている。この計画は河村瑞賢(かわむらずいけん)による西回り航路の開発で立ち消えとなった。
その後も江戸時代をとおしてたびたび通船願いが出されている。しかし、北国街道の宿場問屋は継ぎ立て荷が減り駄賃(だちん)収入が減るとし、川筋にあたる村々は川上に向かうときの引き船で田畑が荒らされ、用水取り入れ口などがいたむなどの理由でいずれも反対した。通船許可をあたえる幕府も宿駅問屋維持の方針をとり実現が遅れた。ようやく通船が許可されるのは、後述するように寛政二年(一七九〇)、水内郡西大滝(にしおおたき)村(飯山市)の名主斎藤太左衛門が西大滝-福島(ふくじま)(須坂市)間一三里(約五一キロメートル)の営業を許可されてからである。
これ以前の安永七年(一七七八)八月、西大滝村の善左衛門が提出した通船願書(『県史⑧九五三)によると、明和三年(一七六六)ころに高井郡高井野村(高山村)の三郎左衛門と、同郡六川村(小布施町)の要八が、上田あたりから新潟湊まで、道法五〇里から六〇里(約一九六~二三六キロメートル)の通船を願いでて、運上を納めて就航したが、難場が多く一年あまりで撤退してしまったという(『県史』⑧九五三)。一部には私的に、あるいは試みに運航した通船もみられた。
船に先行する水上運送法として、古くからおこなわれていたものに筏(いかだ)がある。川の上流で伐採した材木を筏場(綱場(つなば))まで流し(管流(くだなが)し)、そこで筏に組んで下流の木場(きば)(集材地)へ流送した。
近世、千曲川で筏を利用した大きな流送のひとつに元禄・宝永の善光寺如来堂(本堂)再建用材がある。善光寺では元禄十三年(一七〇〇)七月の火災で、再建中の如来堂のほか集めた再建用材の大部分を焼失してしまった。善光寺町の佐藤金左衛門らは、千曲川水系上流の佐久郡海尻(うみじり)・八那池(やないけ)(南佐久郡小海町)、大日向(おおひなた)(佐久町)、北相木(北相木村)、南相木(南相木村)、下流では野沢山(野沢温泉村)、小菅(こすげ)山(飯山市)から、犀川水系では生坂(いくさか)山(東筑摩郡生坂村)、奈良井山(木曽郡楢川村)、裾花川では鬼無里山(鬼無里村)などの諸村から良材を選んで切りだした。出された材木は、犀川・裾花川を川下げしたものは九反(くたん)(中御所)に、千曲川をさかのぼった材木は村山(柳原)に集められた。佐久方面から千曲川をくだった材木は、牛島(若穂)の犀川との合流点から犀川・裾花川に引きあげ九反へ届けた(『霜田美恵子文書』 長野市博寄託)。二ヵ所に集められた材木はそこから大八車を使って善光寺へ運ばれた。このうち、最大のものは直径約六七センチメートル、長さ一六・三メートルの木材がとれた柱材八本、その他の柱材一五〇本余、屋根材の榑木(くれき)一五万八〇〇〇挺などが切りだされた(『県史』⑦二〇四五・二〇五五)。多くは筏による川下げがおこなわれたと思われる。
また、松代城下では、享保(きょうほう)二年(一七一七)の火災で焼失した城や城下の再建に、藩の御用林である更級郡の上平(うわだいら)御林(坂城町)から八五二四本、羽尾(はねお)御林(戸倉町)から一〇三一本、八幡(やわた)御林(更埴市)から二二九五本など、総数一万二〇〇〇本をこえる松材を切りだしている。このときの上平御林からの筏・駄送などの運送費は五四両二分余、同じく羽尾・八幡御林からの運送費は三九両二分余であった(『更級埴科地方誌』③下)。上平から松代行きの材木は力石渡場(どば)(上山田町)で筏に組まれ、西寺尾渡場(松代町)まで運ばれた。
このように、筏流しは領主からの命による御用木おろしのケースが多かった。民間の売木が許可されにくかった背景には、①用水堰の取水口、渡し場などの諸設備が破壊される、②川猟のための諸設備が破壊される、③宿駅や駄賃稼ぎの馬士の駄賃収入にかかわる、などの理由による周辺住民の反対があった。嘉永三年(一八五〇)、久保寺村(安茂里)の惣右衛門らは裾花川上流で伐採した材木や薪(たきぎ)を、増水を利用して下流へと流した。この早流(さなが)しによって八幡堰(はちまんぜき)を利用している村々の取水施設をこわしてしまい、騒動となった。惣左衛門らがわびをいれ、こわれた箇所を修復することで和解したが、用水組合では今後いっさい薪などの早流しを認めないとしている(『市誌』⑬二六三)。
筏流しは、筏乗り下げ人(筏師(いかだし))によってしきられていた。嘉永五~七年の「千曲川筋通行筏改帳」(『更埴市史』②)によると、乗り下げ人は矢代(更埴市)一一人、鼠宿(ねずみじゅく)(坂城町)八人、小市(安茂里)・網掛(坂城町)各七人、東福寺(篠ノ井)五人、千本柳(戸倉町)・山田(上山田町)・志川(しがわ)(更埴市)各四人などであった。小市の七人は犀川の乗り下げもおこなっていた。