太左衛門船

901 ~ 902

寛政二年(一七九〇)、中之条代官野村八蔵から西大滝村の斎藤太左衛門に千曲川通船の許可がおりた(『斎藤家文書』県立歴史館寄託)。西大滝は信州がわ最後の河岸(かし)場であり、太左衛門は越後から陸送されてくる商人荷物の荷宿(にしゅく)も兼ねており、信越間の商い荷輸送には便利であった。通船区間は西大滝-福島間、船は五艘(そう)。船の長さは一〇間四尺(約一九・四メートル)、幅九尺~一丈(約二・七~三・〇メートル)(写真15)。船には、船頭一人、舳竿(へさきざお)一人、綱手(つなて)四人の計六人が乗った。綱手は川をさかのぼるときに、川岸に沿って綱で船を引きあげた。運上金は銭一貫一〇〇文とし、千曲川両がわの用水堰・渡し船場・魚猟場・田畑などを荒らさないこと、諸荷物が多くなり船を増やした場合は、運上金を増すことなどを約定している。船の製作費は約一五両で、当初三艘を用意した。日給は船頭二〇〇文、舳竿が一五〇文、綱手一二四文。船一艘の積み荷は上り八〇俵、下りは九〇俵。運行期間は三月から十月までが主で、西大滝-福島間一三里を六日で往復した。


写真15 千曲川通船に使われた太左衛門船の展開図
(『斎藤家文書』県立歴史館寄託)

 当初は商品流通量が少なかったためか、文化十年(一八一三)までは一艘で、塩・材木・大豆・麦・稗(ひえ)などが運ばれた。ところが、文化年間末になると商品生産の発達と、都市・在郷での消費生活の活発化を背景に、水運の輸送量はいちじるしく増大した。これを背景に高井郡栗林(くりばやし)村(中野市)の与五作が文化十五年、新規通船を中野代官所に願いでた。願書によると、越後柏崎(かしわざき)(柏崎市)・柿崎(かきざき)(柿崎市)あたりから西大滝・桑名川(くわながわ)(飯山市)へ陸送される塩と、高井・水内両郡下郷(しもごう)の米穀・菜種を上郷(かみごう)へ、上郷の雑穀・煙草などを下郷へ輸送するためとし、川船一艘で一〇ヵ年季の免許をうけ、毎年冥加金三〇〇文を上納するというものであった。太左衛門はすぐに反対したが、けっきょく太左衛門が冥加金三艘分、六六〇文を出し、塩・茶・雑穀を輸送することをあらためて出願し、与五作は栗林村に河岸問屋を設置し、太左衛門船の一艘として運行することになった。