松代藩川船

902 ~ 904

文化十四年(一八一七)三月、松代藩は幕府の下知がおりたとして、御用商人である八田嘉右衛門に御用の品々の川船運送を申しつけている。藩では城下や宿方・村方などの便利もよく、助成にもなるとして城下でさばく品物について、船積みに都合のよいものを藩の川船で運送することとし、これまで馬継ぎしてきたものと重なり村方が難渋することもあるからと、試しに年間の輸送量をきめ、運上を課して川田-福島宿間で試行してみる、というものであった(「勘定所元〆日記」)。

 この試運送から四年後の文政四年(一八二一)、松代藩は領域の必要物資の輸送と冥加金の徴収を名目に藩営川船の本格的な就航を始めた。千曲川沿岸の宿駅、とくに福島・川田などは取り扱い荷物の減少を理由に反対したが、藩は物産会所を軸とする藩内商品作物の独占販売、領内物資の安定供給という「国益(こくえき)」を前面にかかげて押しきり、通船願人から宿方に補償するということで納得させている。太左衛門も既得権を侵害されると抵抗したが、けっきょく両者が歩みより和談規定書を取りかわした(『県史』⑧七四二)。①松代藩川船は二艘で、松代・飯山間を運航するが、うち太左衛門が既得権をもっている福島・飯山間については太左衛門の差配にしたがうこと、②太左衛門も福島から上流の松代まで乗りいれることができるが、松代藩川船会所の差配にしたがい、米穀は松代領へは積みのぼせしないこと、などをきめている。

 松代藩にとって、糸会所・産物会所など一連の商品流通統制策の先駆けとなるのが、この川船会所設置であった。川船会所は、千曲川の支流蛭川(ひるかわ)をのぼった東寺尾村(松代町)に置かれ、船着場と藩の蔵があった。船は大小用意されたようで、大きい船は三五駄積みで建造費は一三両。乗員六人(船頭一、舳竿一、船方四)で、飯山-松代間を下りは一日、上りは四日で運航し、上りには幕末・明治になると帆も利用されたようである。天保年間(一八三〇~四四)には年間二〇〇〇~三〇〇〇駄を運んでいるが、下り荷は六〇駄から一〇〇駄にすぎず、松代藩がわの移入品が中心であった。主な移入品は塩・穀類・茶・木綿・油・菜種・紙・硫黄・煙草・木製品であった。

 松代藩川船と競合するなかで、太左衛門は天保三年(一八三二)に、埴科郡森村(更埴市)の和七へ持ち船のうち二艘の御免株(ごめんかぶ)と船を金二〇両でゆずった。和七は松代藩川船の責任者である。翌天保四年から、太左衛門も松代城下に近い柴(しば)村(松代町)の河岸へ乗りいれたが、輸送量からみると松代藩川船が優勢で、天保十五年では年間通船荷物の八五パーセントは松代藩川船が占めていた。

 天保年間、松代城下に入った通船荷物のうち、四分の一は塩であった。その大部分は瀬戸内(せとうち)塩で、西回り海運で今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)に陸揚げされ、高田(同市高田)の塩問屋がその独占権をもっていた。千曲川通船公認以前は、塩は北国街道を陸送されていたが、一八世紀後半から商品流通の盛行にともなって、高田-新井(あらい)(新井市)-富倉(とみくら)峠-飯山-千曲川通船-善光寺平のコースが注目されてきた。享和期(一八〇一~〇四)には、飯山町に八人の塩商人が店を開き、栗林、押切(おしきり)・山王島(さんのうじま)(小布施町)、長沼・福島・綿内・丹波島・松代の各河岸場に大量の塩を通船によって輸送した。小布施(小布施町)の高井鴻山(こうざん)の祖父、高井作左衛門も通船利用の塩商いで家業をさかんにした。このように千曲川通船は塩輸送と深くかかわっていたのである。