善光寺後町(ごちょう)(東後町)の商人厚連(こうれん)は、文政期(一八一八~三〇)に西大滝下流の難場の岩石を打ちけずり、新潟湊まで通す新規通船を企てた。文政十一年、中野陣屋代官の検分をうけ、江戸から職人を雇い、西大滝下流の大石を打ちくだく工事を、水内郡中尾新田村(豊野町)佐兵衛とともにねばり強くつづけた。途中、中野代官の転任や、通船御用係が中野代官から越後脇野町代官(新潟県三島郡三島(さんとうぐんみしま)町)、川浦代官(同県中頸城(なかくびき)郡三和町)へとかわったことなどで工事は一時中断したが、天保九年(一八三八)に岩石掘り割り普請が完成した。その年の九月に西大滝から割野(わりの)新田(同県中魚沼郡津南町)まで乗船見分がおこなわれた。そして、この難所開削の成功によって天保十二年に新規通船とその積み荷問屋の差配の許可を得た(『県史』⑦一六七八・一六七九・一六八〇)。それは、丹波島から新潟湊まで五ヵ年季、船八〇艘という大規模な通船計画であった。同年に先行する太左衛門とのあいだで取りかわした規定書には、荷積み問屋の口銭(こうせん)あがり高の三分の一を年々川筋難場普請費として差しだすこと、また荷積み問屋の運上金を五〇〇文ずつ差配所に出すこと、などが記されている(『市誌』⑬三七九)。
荷積み問屋には、丹波島宿(更北丹波島)市郎左衛門、荒木村(芹田)与惣治、綿内村(若穂)助次郎、栗林村武右衛門、桑名川村庄左衛門などが名をつらね、川田宿又右衛門・厚連とともにこの通船に深くかかわっていた。かれらはそれぞれの地で諸営業を手びろく営む豪農商である。通船開始当初は、陸上輸送をおびやかすとして反対にまわった宿駅がわも、一九世紀には輸送量の増加と河岸(かし)場と目的地とをむすぶ輸送に注目し、宿駅内部から通船賛同者が増え、通船願いが出されるようになっていたのである。
厚連の千曲川通船参入により、太左衛門は犀川べりの丹波島、荒木の両河岸まで乗りいれることができるようになり、厚連も丹波島・荒木から新潟湊まで運航する許可を得た。
西大滝の難場の開削は、苦労のすえ完成し通船が可能となったが、六年後の弘化四年(一八四七)の善光寺地震によって河床が隆起し、ふたたび通船が不可能となってしまった。地震後、あらためて現場の開削に努力したのは、松代藩士横田九郎左衛門である。九郎左衛門は弘化二年から嘉永五年(一八五二)まで、北は奥州会津(福島県)から西は日向(ひゅうが)(宮崎県)・大隅(おおすみ)(鹿児島県)までを同志三、四人と旅し、「何地へ参っても、湊の有る所、船の出入りの有る所でなければ国が富んでおらぬ」ことを見とどけ、西大滝の開削陳情のため出府することもたびたびあった。九郎左衛門は、松代領の大豆を越後へ送り、越後のにしん・いわしなどの魚類をもちかえって農作物の肥料に使えば、一挙両得だと考えていた(『富岡日記』)。この開削計画は厚連の息子と、町川田の安次郎、川田宿問屋の西沢又右衛門を中心にすすめられ、幕府へ一万五〇〇〇両の拝借も願いでた。しかし、安政五年(一八五八)八月、幕府普請役小林次郎・坂台三郎の実地検分がおこなわれたものの許可にならず、通船はけっきょく西大滝-丹波島間の往復にとどまった(『松代町史』下)。
厚連の通船運営方法は、みずからの持ち船を荷積み問屋仲間に貸して運用をまかせ、年々所定の冥加金を納めさせるという方法であった。荷積み問屋は株主ともよばれ、厚連は善光寺町に差配所をもうけ、株主を差配した。天保十三年十月に丹波島宿市郎左衛門に通船二艘を貸し渡しており(『県史』⑦二〇一六)、荷積み問屋仲間による運航は軌道にのった。宿駅問屋や飯山町の問屋層、各地の豪農商などを株式方式で編成した運営は、現在にも通じる厚連の近代的な手腕を思わせる。しかし、嘉永二年、厚連が病死するとこの通船はしだいに衰退した。
こうして、天保十二年以降は、千曲川では太左衛門船、松代藩川船、厚連船の三種の通船が運航した。元治元年(一八六四)の取りきめによる各荷物の運賃は表16のようである。陸送にくらべて下りで七三から六八パーセント、上りで六〇から五二パーセントほど安かったという試算もある。
寺尾河岸のさらに上流、上田方面の通船計画についてもみてみよう。松代木町(きまち)の伊勢屋孫兵衛(まごべえ)は寛政五年(一七九三)・天保八年・同十五年に松代-小諸間の通船を願いでたが、街道筋宿場がわから反対された。弘化二年孫兵衛は四度めの同区間の通船願いを出し、大木・大石と中馬付け残りの水油・薪・酒にかぎり、五駄積み(七五〇キログラム)の船五艘、一〇駄積みの船一〇艘で五ヵ年のあいだ試しに新規通船する許可を幕府の御影代官所から得ている(『市誌』⑬三八三)。しかし、通船の実態を示す史料は今のところ見つかっていない。