犀川通船

907 ~ 910

犀川通船願いは元文(げんぶん)四年(一七三九)から延享四年(一七四七)・宝暦十年(一七六〇)・安永六年(一七七七)・文政五年(一八二二)の五回松本藩へ出願されたが(『犀川-歴史の道調査報告書』)、そのつど北国西街道の宿駅や中馬業者から、旅人や荷物が減るという理由で反対されて実現しなかった。このうち、延享四年の願いは、権堂村(権堂町)瀬兵衛、問御所村(問御所町)治左衛門、三才村(古里)仲右衛門、黒川村(牟礼村)弥五右衛門らによる千曲川・犀川通船願いであった。これによると、①薪、②炭、③雑木挽割(ひきわり)類、④板類、⑤板子三方類、⑥酒荷、⑦畳、⑧裏付薄縁(うすべり)、⑨砥石(といし)、⑩油樽(あぶらたる)、⑪穀類、⑫桶(おけ)ノ竹輪、⑬茶、⑭荏(え)、⑮菜種、⑯塩、⑰銓(はかり)の船積みを願いだし、代官所からその差し障りの問い合わせが北国往還の各宿にあった。各宿では、①から⑨までは船積みしてもかまわないが、⑩から⑰までは、宿継ぎ送りの荷物であり、中馬付け送りの荷物でもあるので困ると寛延三年(一七五〇)に回答している(『県史』⑦一六〇八)。両河川とも運航区間などは不明であるが、陸路での継ぎ送り荷物と重ならない品目であれば、通船も認めていたことがわかる。逆に、願い人としては差し障りがあるとされた八品の積み荷に主眼があったと思われる。

 筑摩郡白板村(松本市)の折井儀右衛門、同郡宮淵(みやふち)村(同)の赤穂友蔵、水内郡新町村(信州新町)の大内源之丞は、文政五年から出願し、幕府の奉行所で宿場がわとの交渉を重ねた結果、一〇年後の天保三年(一八三二)一月、「旅人や宿継ぎ荷物、商人荷物は乗船させない。川筋へ荷物見改め所をもうけ、違反した場合は通船の差しおさえを認める。補償金を二五〇両出す。別に藩へ冥加金を年々五貫文上納する」ということで示談が成立し、認可された(『県史』⑤一四八三)。認可の背景には、商品流通の促進と統制をはかる松本藩のあと押しがあった。

 諸準備を終え、天保三年八月から女鳥羽(めとば)川と田川の合流点から新町まで一四里(約五五キロメートル)の通船が実現した。荷物は五一品目、通船数は一五艘ときめ、宿場がわへ見改め費などの費用を出して通船していた。松本藩は女鳥羽川の合流地点に船会所をたて、松本町問屋倉科七郎左衛門や城下商人六人を船問屋に任命した。

 新町の下流、みすず橋の下には弥太郎(やたろう)の滝があり、川底に岩石が多く通船不能なため、新町で船からおろした荷物は手馬によって久米路(くめじ)橋を渡り、稲荷山宿、さらには善光寺町へと付けだされた。船の大きさは、大船は上のり一一間(約二〇メートル)、幅六尺二寸(約一・九メートル)、深さ三尺(約〇・九メートル)。小船は幅四尺であった。積載量は大船で下り一二〇〇貫(四五〇〇キログラム)まで、上りは一六〇貫であった。ちなみに、中馬一駄はほぼ三〇貫である。大船で四、五人、小船は三人が乗船し、船頭は一人であった。積み荷は米穀類・酒・炭・薪・長材木・長竹・石・土・瓦(かわら)にかぎられた。

 天保四年七月、宿駅がわは塔の原(とうのはら)(東筑摩郡明科町)渡船場で、新町行きの四艘を改めたところ、違反の油粕(あぶらかす)・溜(たま)り・菜種・瀬戸物・米・水油などと旅人一六人が乗っていたので紛争がおこった(『県史』⑤一四八四)。それぞれ幕府へ出訴した結果、通船の再規定がとりかわされた。①白板から新町までの通船は一五艘とし、冥加金を松本藩預り役所へ上納する。宿方も立ちあって、御預り役所の焼き印を押し、焼き印のない船の通船を禁じる。②船積み荷物は、先規の規定品と宿方に差しつかえにならない品にかぎる。③犀川通船見改め所を宿方最寄りの押野(おしの)村(明科町)に一ヵ所建て、通船は往復とも改め所につけて荷品改めをうける。④通船がわから見改め所へ金一〇〇両を渡し、以後一四両二分ずつ渡す。見改め所諸費用は宿方でまかなう、などとした。

 その後も、規定荷物について紛争がつづき、天保七年五月具体的な取りきめがおこなわれた(『県史』⑤一四八六)。それによると、通船荷物について油粕・椎茸(しいたけ)・砥石・瀬戸物など五〇品目とされた。川辺村々から会田通り江戸行きの刻煙草(きざみたばこ)は松本へ船積みしない。また、佐久・川中島・善光寺町・松代町へ送る産物の煙草・干瓢(かんぴょう)・紅花(べにばな)などは、新町へ積み下げしない。山中産の麻荷類と鰤(ぶり)荷は船積みしない。川沿い村々の入用の立茶は丸俵ではなく切り俵として送る、などがきめられている(表17)。


表17 犀川通船荷物 天保7年(1836)

 これ以降も、弘化年間(一八四四~四八)から幕末にかけて、通船を利用する荷主が増してくるにつれ、規定品以外の商品を積むことが多く、しばしば旅人を乗せ、宿駅がわと通船がわとの紛争がつづいた。

 明科から下流の犀川には難所も多く、ときに難破し、荷物や人命を失うこともあった。通船仲間は、各所に水神(すいじん)・琴平(ことひら)・白山(はくさん)社を祭り、航路の無事を祈った。