弘化4年(1847)ころの善光寺町と町続き地
(信濃毎日新聞社『弘化4年善光寺地震』)
江戸後期になると善光寺八町が家並みで埋まるほか、町続き地の松代藩御預かり幕府領の権堂村、松代領の妻科村後町組・新田組・石堂組、椎谷(しいや)領の問御所村なども町場化した
善光寺町の銭札(ぜにさつ)(個人蔵)
小額通貨の払底(ふってい)で町民が苦しんだ幕末文久(ぶんきゅう)年間(1861~64)、有力商人10人が天保百文銭との引き換えを保証して発行、通用した銭札。額面24文と32文の2券種が現存する
弘化4年(1847)信州地震大絵図(真田宝物館蔵)
松代藩が大岡村生まれの足軽新左衛門に描かせた被災状況絵図で、横幅4mをこえる大作。松代領のほか、南は松本領、北は飯山領にわたる地域が、火災・山崩れ・水害の被災別に色分けされている
権堂水茶屋遊興の図(部分)(国立国会図書館蔵)
両図とも、天保2年(1831)に長谷川雪旦(せったん)が描いた「北国一覧写-越後・信濃・上野(こうずけ)・武蔵」所載。戒壇巡りに参詣人が列をなす善光寺(右図)と、その「精進落とし」の客で繁盛する権堂の水茶屋(上図)
上 善光寺祭礼図巻(部分)(真田宝物館蔵)
祇園(ぎおん)祭礼は善光寺八町の最大の祭りで、6月13・14両日に催され、町々の屋台巡行などの出し物に遠近の見物客が群がった。江戸後期になると松代領妻科村後町組や幕府領権堂村なども加わった
下 松代天王(てんのう)祭図巻(部分)(真田宝物館蔵)
松代藩絵師の三村晴山(せいざん)が描いた天王(祗園(ぎおん))祭礼図。天王祭は城下の町八町(まちはっちょう)の最大の祭りで、藩主・藩士らも積極的に参加した。祭礼日は藩主不在年には6月18・19両日、在城年には8月18・19両日を基本とした
万延元年(1860)御柱祭(おんばしらさい)行列図大絵馬(東町 武井神社拝殿)
雅孝(がこう)筆の縦120cm、横350cmの大絵馬。善光寺地震で焼失し、13年後に再建された武井神社拝殿遷宮のときの御柱祭の図で、神社に奉納された。市指定有形文化財(絵画)
善光寺本堂(元善町)市教育委員会文化課提供
善光寺本堂は日本回国出開帳(かいこくでがいちょう)で集めた浄財により造営が進められ、宝永4年(1707)に落成した。独特の撞木(しゅもく)造りで、梁行(はりゆき)約23.7m、桁行(けたゆき)約53.7m、高さ27m余と大規模な、近世の代表的寺院建築。国宝
旧横田家住宅(主屋(おもや))(松代町松代)市教育委員会文化課提供
松代藩士で郡(こおり)奉行などを勤めた横田家住宅のうち主屋で、寛政6年(1794)の建築。桁行(けたゆき)17.1m、梁行(はりゆき)9.6mの寄棟(よせむね)造り、茅葺(かやぶ)き。表門・隠居屋・土蔵2棟とともに重要文化財
宝暦改革の月割り上納触れ(国文学研究資料館史料館蔵)
宝暦8年(1758)の松代藩「御郡方(おこおりかた)日記」にみられる月割り上納触れの記事。勝手掛家老恩田木工民親(おんだもくたみちか)による宝暦改革のなかで、月割り上納制は民政・財政改革の中心的施策であった
恩田木工民親の墓(松代町松代 長国寺墓地)
市教育委員会文化課提供
高さ240cmの宝篋印塔(ほうきょういんとう)。正面に「玄招院鉄翁道関居士」、左側面に「宝暦十二壬午(みずのえうま)載正月上六日」、右側面に「俗名恩田氏民親墓」と刻む
真田幸貫(ゆきつら)画像(真田宝物館蔵)
川上冬崖(とうがい)が描いた松代藩8代藩主真田幸貫の画像。幸貫は奥州白河藩から養子に入り、文政6年(1823)から嘉永5年(1852)におよぶ藩主在任中、家中・領内の多彩な改革を推しすすめた