善光寺町における定期市(いち)の起源は明らかでないが、鎌倉時代には定期市が立っていたといわれる。また、一五世紀初頭ころにも、『大塔物語(おおとうものがたり)』に「善光寺は三国一の霊場にして、生身弥陀(しょうじんみだ)の浄土、日本国の津にして、門前市をなし」と記され、市が立っていた(『市誌』②二編一章三節三項、三章四節一項)。近世に入り、寛永十六年(一六三九)には定期市を開く場所をめぐって下大門町と善光寺大勧進(だいかんじん)代官高橋円喜(えんき)、大勧進役僧春能(しゅんのう)らとのあいだで争いがおこっている。円喜らからの返答書には「栗田殿の御時は、市役(いちやく)に(薪(たきぎ))一駄ずつ御取り候へども、寺領にまかりなり候以来、四代以前より薪代出し買い申し候」と記され(『中沢総二家文書』長野市博寄託)、室町時代後期の栗田氏支配のころには市役として、毎年薪一駄を徴収していたことがわかる。
慶長六年(一六〇一)に善光寺領が成立するが、天和(てんな)二年(一六八二)のころ善光寺町には、一・四・六・九の日に十二斎市(じゅうにさいいち)が立っていた。このうち四・九の日は「大市(おおいち)」とされている。また、西横町・東横町・岩石(がんぜき)町は町中残らず、東之門町は町三分の二ほど、西之門町は町半分、西町は町三分の一ほど、阿弥陀院(あみだいん)町(栄町)は町四分の一ほど、桜小路(桜枝町)・東町は町五分の一ほど、ほかにも「町中少々」の場所で市が開かれていたところがあった(『県史』⑦一三〇九)。また、大門町も善光寺市の中心であった。つまり、天和期(一六八一~八四)ころは、市は善光寺境内入り口の大門町と東・西横町あたりを中心とし、ほぼ全町で開かれていたのである。しかし、これ以前の寛永期ころは、大門町と東・西横町でのみ市立てがなされていた。
寛永十六年に、下大門町が大勧進代官高橋円喜らの不正を幕府寺社奉行に訴える事件がおこった。訴えのなかで、市については、①前々より十二斎市が西・東横町、大門町に立っていたが、一〇年このかた円喜が自分の屋敷の前(横町)にばかり立てる。しかも大門町の市を妨害する。②善光寺十二斎市へ来る者から、円喜は七月と十二月に押し買いをするのでその月は市が立たない。③円喜は、籾(もみ)の押し売りをおこない、とくに年貢籾は世間相場が金一両につき八俵のときは五俵、七俵のときは四俵というように高値で売りつける、と述べている(『県史』⑦一三〇三)。
これにたいする円喜らの反論はつぎのようなものであった。円喜の屋敷前ばかりに市を立てるというが、それはいつわりである。市は大勧進・大本願(だいほんがん)両寺三代以前より西・東横町、大門町に立っていたが、願いにより十二斎のうち六斎を下大門町で開かせた。しかし、いろいろ争論があってつぶれてしまった。押し買いについてもまったく身に覚えがない。大勧進・大本願両寺は、七月に節木(せちぎ)(法事・節供(せっく)などに使う木)を一駄ずつ一市留(ひといちと)め買いをするので、そのことと勘違いしているのであろう。寺俵(てらだわら)は四代以前より四斗八升入りの大俵(普通枡(ます)では籾六斗入り)であり、松代での売り籾値段と比較して、一両につき二俵高で取り扱ってきた。近年、松代での売り値段が高くなったので一俵半高としたが、一昨年からは町方の願いにより一俵高とした。決して押し売り籾などはしていない。
円喜は、不正はまったくないという強い態度で押しとおしており、この時点では円喜らの主張が通ったようである。いっぽう、大門町の訴えからは、町内での市立てを確保し、それによって町の繁栄をはかろうとする意向をみることができる。
そうした大門町の意向は延宝八年(一六八〇)に実現することになる。大門町は、「近年困窮(こんきゅう)つかまつり、御役(伝馬役(てんまやく))勤めかね候」として、三年ほど前から一・四の日の市は大門町で開きたいと大勧進・大本願両寺へ願いでてきたのであるが、これが認められたのである。また、このほかに、大門町の市日においては、他町での軒先を貸しての筵(むしろ)商い、雁木(がんぎ)・石場より前へ出しての商品陳列、他所商品の筵敷き販売、なども禁止された(『県史』⑦一三〇五)。こうして善光寺十二斎市の半分を大門町で独占することになったわけであるが、岩石町をはじめとする他町はこれにはげしく反発し、このあとも大門町と他町との争いがつづくことになる。
近年市法がみだりになり、町の者が迷惑をこうむっているとして、大門町は元禄三年(一六九〇)七月一日から馬差(うまさし)を付き添わせた「市廻(いちまわ)り」(市奉行)を、市日に巡回させることにした。そして、「市廻り」伴右衛門が、横町長右衛門の家の前で塩商いをおこなっていた同町借家人三左衛門の枡を取り上げ、三左衛門らがそれを取り返したことから騒ぎがおこった。大門町がわは、三左衛門・長右衛門家内そのほか大勢の者が出合って「市廻り」を打ちすえるという行為を見すごしておいては大門町の市がつぶれてしまう、と幕府寺社奉行に訴えた(『県史』⑦一三一〇)。いっぽう、横町がわは、大門町は勝手に「市廻り」をたて、「大勢棒を突いて理不尽(りふじん)に売り物などを取り得(どく)」にしている。とくに横町をはじめとする四町は市場商売で生計を維持しているので、善光寺市は元どおりの市立てにしてほしい、と訴えた(『中沢総二家文書』長野市博寄託)。この紛争は、翌元禄四年十二月に、寺社奉行から従来どおり大門町で一・四の市を立てることが申し渡されて決着した。
善光寺町の市においては、玉屋という商人頭(がしら)が中世以来市役銭を徴収する権利をもっていたとされる。また、善光寺町はずれに住む「えた」も市役を徴収する権利をもっていた。宝暦十四年(明和元年、一七六四)には、松代領川北(かわきた)四六ヵ村・川中島二五ヵ村・山中(さんちゅう)三二ヵ村が、彼らへの市役納入を拒否し、それでもし善光寺市を差し止めるというのであれば、領内最寄(もよ)りの場所へ市場を立ててほしい、と松代藩に願いでている。この紛争がその後どうなったか明らかでないが、その後も市役の納入はつづいたのである(『県史通史』④四章二節、小林計一郎『長野市史考』)。