大門町と横町など他町との市日争いは、大門町が一・四の市日を獲得して終わったが、大門町の内部では、上大門町と下大門町とが「市頭(いちがしら)」の場所をめぐって対立した。下大門町は、善光寺市の中心から少し離れていて不利な状況におかれていた。寛永年間には、十二斎市のうち六斎市が下大門町で開かれることもあったが(四・九の市日)、その後は上大門町が市の中心であり、市頭も上大門町にあったようである。元禄五年に、下大門町の吉郎兵衛らは、①延宝八年十二月以降一・四の市を大門町で独占するようになったが、そのさいは下大門町の木戸ぎわに市頭が立てられた、②上大門町では、六・九の日にも市が立っており、上・中大門町にのみ市が立つようだと下大門町はつぶれてしまう、と幕府寺社奉行に訴えた。
この訴訟にさいして、善光寺大勧進・大本願の寺役人(山崎藤兵衛・永田佐左衛門)は元禄六年二月八日、つぎのような内容の「口上書」を幕府寺社奉行に提出した。①延宝八年以来、善光寺十二斎市のうち六斎市を大門町で立てているが、下大門町は、六斎市の市頭はすべて下大門町であると主張している。②いっぽう、上大門町の主張は以下のとおりである。延宝八年十二月の市立てにおいては、下大門町が「不盛(ふざか)りの場所」であるので一・四の両市とも下大門町に市頭を立てた。しかし、春になったら四の大市は下大門町で、一の小市は上大門町でそれぞれ市頭を立て、その後、下大門町が繁栄するようになったら大市・小市を取りかえるという約束で、翌年からそのとおり実施してきた。③延宝八年に六斎市を大門町で立てるようになったさい、市頭についてはとくに何の申し渡しもおこなっていない。したがってどちらの言い分が正しいのか不明である。④以上の点を支配頭である松代藩の役人に訴えたところ、市出入りについて前回幕府の裁許を願ったので、今回もそうすべきだとの意見を頂戴(ちょうだい)した(『県史』⑦一三一三)。
この大門町内部での市頭をめぐる問題は、元禄六年二月二十七日に幕府寺社奉行から、大門町で立つ一・四の六斎市のうち、大市一回、小市一回は上大門町で市頭を立て、大市二回、小市二回は下大門町で市頭を立てるようにとの裁定がくだり、ようやく決着することになった。なお、裁定にある市日の具体的な内容は、十一日・十四日は上大門町、一日・四日・二十一日・二十四日は下大門町でそれぞれ市頭を立てるというものであり、その市日は幕府寺社奉行所役人のさしずにしたがい、松代藩主真田伊豆守(幸道(ゆきみち))が評定所で籤(くじ)を引いて決定したものであった(『県史』⑦一三一三)。
善光寺領民と松代藩とのかかわりについては、天和二年に日光門主(善光寺の本寺東叡山別当(とうえいざんべっとう))から松代藩にたいし、「前々より町人・百姓は御領分同様の仕置きを仰せ付けられているときいている。今後も従来どおり御仕置き願いたい」との依頼がなされていた(『市誌』⑬八〇)。善光寺町内部の市日争いに松代藩がかかわった理由は不明であるが、天和二年いらいの藩の関与によると考えられる。