善光寺市の取り引き商品

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善光寺町ではさまざまな商品が取り引きされたが、おもな商品に塩・穀物・木綿(もめん)・紙・薪(たきぎ)などがあった。天保六年(一八三五)には、善光寺町と町続き地とのあいだで市場をめぐっての争いがおこっているが、そこではとくに塩・穀物・木綿の取り扱いが問題となっている(本章二節)。

 生活必需品である塩は、瀬戸内海でつくられたものが越後今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)で陸あげされ、高田(同高田)経由で信濃に入ってきたものであった。天保九年の段階では、善光寺町の塩問屋は仲間を結成しており、行司をおいていた(『県史』⑦一三三七)。そして、この天保期に、善光寺町には年に約二万駄の塩が入ってきたといわれる。天保八年に、岩石町の塩問屋矢島屋喜右衛門は、松代伊勢町の押田屋久右衛門を世話人として綿内村(若穂)質屋佐次郎へ塩一五〇駄を一二七両二分で販売しているが(『県史』⑦一三三四)、この事例からも善光寺塩問屋の商圏が善光寺平一帯におよんでいたことがうかがえる。なお、善光寺定期市での販売は、雑穀や薪、布などをもちこんでくる百姓がおもな対象者であったとみられる。また、塩商人は、善光寺町の町続き地にも大勢おり、駄売りをおこなう者までいた。

 穀物も善光寺町の主要な取り引き商品であった。善光寺町の酒造人は、享保十年(一七二五)時点では一一人(『旧信濃国善光寺平・豪農大鈴木家文書』)、天保六年には四人(酒造株保有者、酒造米高は計一七二二石余)であったが(『県史』⑦九六三)、米は酒造用だけでなく、穀屋を通じて飯米としても売買された。善光寺町の穀屋(穀問屋・米問屋をふくむ)は川北穀屋仲間などに加入していたが、天保五年に川北穀屋行司から大勧進役所にあてた尋答書(じんとうしょ)のなかで、「当市場の儀は、平年御近領在々よりの入穀にて融通つかまつり、山中方(さんちゅうかた)・川中島筋へも差し送り、山中筋よりは雑穀持ち出し交易つかまつり候」と記している(『市誌』⑬三三九)。善光寺町には川中島平の米穀はもとより、山中からも雑穀が運ばれて売買されたのであり、善光寺町は善光寺平米穀流通の結節点(けっせつてん)に位置していたのである。なお、天保飢饉(ききん)のときには、米穀は越後や飯山からも善光寺町に移入された。

 信州で近世中期以降栽培が普及した木綿は、善光寺平を代表する商品作物であった。そして、綿製品の原料となる繰綿(くりわた)・篠巻(しのまき)、さらには加工製品である綿布などが善光寺町の市で活発に取り引きされた。また、北信の産綿は「奥綿(おくわた)」と称されて、上田領にも大量にもちこまれた。文化元年(一八〇四)には、上田領に販売活動をおこなう奥筋木綿商人仲間は善光寺・川北(犀川以北)・松代・福島(ふくじま)(須坂市)の四組に編成されている(『県史』①七一六)。木綿商人仲間は、幾重にも重複した仲間組織を形成し、世話役や行司をおいて他組との交渉や仲間統制にあたるとともに、仲間規約を作成して尺幅(しゃくはば)不定の不正製品の取り扱いを禁止するなどしていた。文化七年、善光寺町およびその周辺の仲間は八幡(はちまん)川を境に南を後町口(ごちょうぐち)、北を新町(しんまち)口と定め、市日には在方からの買い入れを禁止するなどの規約を定めていた(『県史』⑦一〇一九)。また、仲間内には吉田組、浅野組(文化十年成立)などの組も組織された。表1は、安政二年八月に松代藩にたいして木綿商い鑑札の下付(かふ)を願いでた善光寺町の人数を示したが、その数は西町、大門町を中心に一〇五人にのぼったのである(ほかに善光寺領の七瀬村一人がいる)。


表1 安政2年(1855)善光寺町の木綿商い鑑札下付願い人数