元禄七年(一六九四)、火災の類焼を防ぐために、それまで如来堂(金堂)の北にあった北之門町を他へ移転させ、その跡地へ如来堂を移す工事が開始されて、宝永四年(一七〇七)に現在の位置に完成した。この移転工事にともなって、それまで如来堂があった場所は空(あ)き地になったが、そこは堂庭(どうにわ)とよばれた。堂庭には小屋掛けをして商売をする商人や露店商が大勢集まり、にぎわいをみせた。
堂庭における諸商人の商業活動について、以下、『長野市史考』に依拠してみてみよう。
善光寺境内で露店商などがいつから営業活動をおこなうようになったのかは不明であるが、近世初頭にはすでにそうした者がいたであろう。堂庭の空き地は防火のために設(もう)けられたものであるから、ほんらいここには民家や小屋を建てることは禁止されていた。しかし、山門と仁王門(におうもん)とにはさまれたこの場所は、参詣(さんけい)者がかならず通る一等地であったから、露店商などが目をつけ商売をおこなうようになった。善光寺境内には、如来堂の移転前から露店商などが営業をおこなっており、元禄五年の史料には堂庭商人についてつぎのように記される。①二月の彼岸(ひがん)には、堂庭に飴(あめ)売り・細具物(さいぐもの)(小間物)売り・茶屋などが商売をおこなっており、地代(ちだい)として銭五〇文を納める。②そのうち、飴売りの分は親方が取り集めて、大勧進に上納する。当時、小屋掛けをしての営業であったかどうかは不明であるが、営業には地代が必要であったこと、飴売りには一定の組織があったことなどがわかる。
ところで、堂庭商人とよばれる者はつぎの三種類に分けることができる。①は、小屋を構えて(小屋掛けをして)商いをする商人であり、小屋は小屋見世(みせ)とよばれる。②は、戸板や筵(むしろ)を敷いて商いをおこなう露店商であり、露店は平(ひら)見世・床(ゆか)見世・筵見世などとよばれた。③は、祭日などに臨時に出る香具師(やし)であり、香具師による見せ物の小屋掛けもあった。
①の小屋掛けをして商売をする堂庭商人は、菓子商い仲間と小間物商い仲間の二つに分かれていた。小間物商い仲間といってもその商売内容はさまざまであり、寛延四年(宝暦元年、一七五一)の場合は、細物(こまもの)(小間物)・茶屋・表具(ひょうぐ)屋・煙草(たばこ)・菓子の各商いがふくまれていたのである。そして、彼らが小屋を構えるには、毎年大勧進の寺役人に堂庭の借地証文を提出して許可を得なければならなかった。享保(きょうほう)六年(一七二一)に菓子商い仲間から出されたのは横沢町一人、後町八人、相之木(あいのき)村(松代領三輪村の枝村)三人の計一二人であり、善光寺町のはずれに位置する者が多かった。また、小間物商い仲間の場合は、この享保六年から正式に借地が認められたようであるが、横沢町五人、西之門町五人、東之門町三人、桜小路・伊勢町・新町(しんまち)各一人、相之木村一人の計一七人であり、堂庭に近い善光寺町の住人が多かった。表2は、享保六年から天保二年(一八三一)までの小屋掛け堂庭商人の推移を示したものであるが、菓子商い仲間の人数は寛延三年以降しだいに減少していき、他方、小間物商い仲間の人数は享保六年以降増加するものの、元文(げんぶん)四年(一七三九)以降は停滞することがわかる。なお、こうした変化をもたらした原因の一端は、堂庭での小屋掛けが飽和状態になったことなどによると思われるが、詳細は不明である。
享保六年の借地証文には、菓子商い仲間の場合は、地代金として年に一人金二朱(春・秋の彼岸(ひがん)に半分ずつ、ただし頭役(かしらやく)の者は免除)を納入すること、堂庭法度(はっと)を守り、とくに火の用心に気を配ることなどが記された。いっぽう、小間物商い仲間の場合は、小屋一坪につき銭四〇〇文の地代(春・秋彼岸に半分ずつ、ただし頭役の者は金一分を免除)を納入すること、身元の定かでない者はもちろん、親類縁者であっても小屋に留め置かないこと、火の用心に気を配ることなどが記された(『県史』⑦一三一四)。
天保九年三月に、堂庭商人二六人は連印で同年分の地代金五〇両と冥加金(みょうがきん)一〇〇両の上納を大勧進役人中野治兵衛に申しでている(『県史』⑦一三三六)。享保六年との比較で地代金の値上がりが予想されること、堂庭商人には相当の利益が確保されていたであろうことがうかがえる。