武田信玄(晴信)による海津(かいず)城(松代城)築城は永禄元年(一五五八)から三年のあいだと推定されている。玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社(松代町東条)の縁起(えんぎ)では、戦国時代には山麓(さんろく)に尼巌(あまかざり)城(尼飾城)の城下町があって、それが海津城の築城にともなって西へ移り、荒神(こうじん)町、中(なか)町、伊勢町となったとする。また、神社近くにあった市神(いちがみ)も町とともに移ったとある(『松代町史』続・補遺)。信玄は、尼巌城を滅ぼすとともに、海津城を築城し、在地の商工業者を城下町に集住させたものと思われる。なお、肴(さかな)町はもとの城下町の一部として、紙屋(かみや)町は紙屋村としてほぼ現在地に存在していたようである。
元和(げんな)八年(一六二二)に真田信之が松代に入封(にゅうほう)するまでのあいだ、松代は多くの大名・城代によって支配され、その家臣や商工業者が松代に移り住んだ。江戸時代に松代町の町年寄を代々つとめた杭全(くまた)家や八田(はった)家(八田家については本章三節一項参照)も武田の家臣として松代に移り住んだと伝えられる。また、宿(しゅく)継ぎ公用荷物の検査などをおこなう検断(けんだん)をつとめた伴(ばん)家は、近江(おうみ)(滋賀県)から移住したとされる。そして、真田氏が入封したころには、武家の住む侍町(さむらいまち)と、「町八町(まちはっちょう)」とよばれる荒神町・肴町・中町・鍛冶(かじ)町・伊勢町・紙屋町・紺屋町・馬喰(ばくろう)町の八つの町人町、という城下町の大略はすでに成立していたと考えられる(『市誌』③一章三節)。
真田氏の支配になってから、市が開かれたのは荒神町・中町・伊勢町の三町であり、現在も中町には「市太神」(市神)の石碑がある(同前書)。「大鋒院殿御事蹟続編稿(だいほういんでんおんじせきぞくへんこう)」(巻八)(『新史叢』⑱三三一・三三二頁)によると、正保(しょうほう)期(一六四四~四八)ころの松代町では、月の十六日以降の市日は、十七日・二十一日・二十三日・二十五日・二十七日であったという(一~十五日までの分は不明)。おそらく当時は十二斎市が立っていたのであろう。しかし、寛文(かんぶん)四年(一六六四)には、三日・八日・十四日・二十日・二十三日・二十九日の六斎市に縮小され、その後一時中断されるにいたる(『松代町史』下)。
文化十一年(一八一四)春に、近年生糸取り引きが盛んになっているとして、荒神町などから伊勢町・中町・荒神町の三町で市立てをしたいとの願書が藩に提出された。その結果、毎月三・七日を市日と定め、三日と十七日が伊勢町、七日と二十三日が中町、十三日と二十七日が荒神町と日割りを決めて定期市が再開されることになった。ところが、はやくも六月には、中町の商人が市日にもかかわらず市場に姿を見せず、市立てができなくなるという事態が発生している(『県史』⑦一〇三四)。その後の推移は不明であるが、背景には、文化七年から中町において、五日・十五日・二十五日の月三回糸市が開かれていたという事情があったものと思われる。生糸取り引きをめぐって、中町商人と他の二町商人との利害対立、思惑(おもわく)の違いが表面化したものと推測される。なお、糸市は、生糸生産の増加を背景に、藩が、領内養蚕農家と領外商人とが直接結びつくのを阻止し、松代城下町を経由する生糸流通網をつくりあげようとしたところに成立したものであった。
この糸市は、生糸などをおもに取り引きする市であって、近世初期からある定期市とはやや性格が異なる。松代町では、文化年間(一八〇四~一八)以降、桑(くわ)市・繭(まゆ)市・紬(つむぎ)市などが立てられているが、近世中・後期にはこうした特定の商品を専門に取り扱う市が各地に開設されたのである。ちなみに上田町(上田市)では、文政二年(一八一九)に糸市・紬市が開設されている(『県史』①七二六)。糸市は、最初文化六年六月に、上田領境の松代領鼠宿(ねずみじゅく)村・新地(しんち)村(坂城町)に立てられたが、同年十月には、上田領がわがおこした訴訟に敗れて撤退し、翌年松代町に新たに開設されたものであった。その後、松代領の糸市は、天保四年(一八三三)には水内郡新町(しんまち)村(信州新町)・笹平(ささだいら)村(七二会)、埴科郡倉科(くらしな)村・森村(千曲市)にも開設されている。