笹平の定期市

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松代領の水内郡笹平村は、犀川の北に位置し、大町道に沿っている。笹平への市立て免許状は、「とら十一月」に出浦半平、池田長門守(ながとのかみ)二人の連署(れんしょ)で町中あてに「これからは上町・下町で一日ずつ立て候ように」との内容で出されている(『県史』⑦一〇〇〇)。年次を欠くが、「とら十一月」は真田氏の松代入封後まもない寛永三年(一六二六)と推定されている。また、「一日ずつ立て候ように」というのは、一ヵ月に一日ずつという意味ではなく、一〇日ごとに一日ずつ、つまり上町・下町で月に三回ずつの計六回(六斎市)を認めるということである。寛文十年(一六七〇)には、上町で人宿(ひとやど)(旅籠屋(はたごや))を営む者が下町の市に商人をよこさなかったとして、下町百姓中が上町百姓中を藩の奉行所に訴えるということがあったが、訴状中には「先規のとおり、十日・二十日・晦日(みそか)、三ヵ日は上市、五日・十五日・二十五日、この三ヵ日は下市」とあって、六斎市であることと、当時は五日目ごとの交替市であったことが確認できる(『県史』⑦一〇〇二)。なお、両市の境には市神(いちがみ)がまつられていた。


写真5 笹平市の定書  (『笹平共有文書』)

 市日における商売をめぐっての争いは元禄七年(一六九四)にもおこっている。相手の市日には蔀(しとみ)を下げておくのがきまりであったが、上町の者がこれに違反し、下町の市日に蔀をあげて商売をしていたことが争いの原因であった。藩の指示もあって内済(ないさい)で決着したが、その内容は、①相手の市日に蔀を上げておくことは容認する。しかし、蔀の外に商品を並べることは禁止する。②他所から仕入れてきた商品はもちろんのこと、定見世(じょうみせ)(店舗(てんぽ))で販売している塩・四十物(あいもの)(干魚・塩魚類)・穀物・鍋(なべ)・釜(かま)、太物(ふともの)(綿・麻織物)・繰綿(くりわた)・桑(くわ)・薪(たきぎ)なども市場で売買させる(ただし、地元の職人がつくったものや自家製の太物一、二反は差し支えない)。③他所から市日に商品を持参してきた場合には、その商品は定見世の者が買いとることなく市場で売買させる、というものであった(『県史』⑦一〇〇五)。市は、常設店舗の者もいっしょに参加する形態であったこと、相手の市日であっても常設店舗は最小限の商売をおこなうことができたことなどがわかる。

 笹平の定期市は、商品作物栽培の普及や需要の増大にともなって、享保十七年(一七三二)には九斎市に発展するが、ここで取り引きされた商品でもっとも多かったのは麻と楮(こうぞ)(楮皮(ちょひ))、和紙であった。山中麻(さんちゅうあさ)の栽培のようすについてはすでにみた(『市誌』③五章二節)。この地域の麻は、重要な収入源として領主の統制のもとにおかれ、百姓たちは寛永十五年以降領主に麻運上(うんじょう)を納めてきたのである。また、山中の百姓たちにとっても「御収納引き当て第一の麻」(災害史料⑧)として、重要な位置を占めていたのであった。山中麻の多くは新町(しんまち)村(信州新町)の市場に出荷されたが、笹平村や水内郡鬼無里(きなさ)村(鬼無里村)・栃原(とちはら)村(戸隠村)、更級郡稲荷山(いなりやま)村・八幡(やわた)村(千曲市)などで開かれた定期市でも売買され、さらに江戸や善光寺町、松本、伊那谷、名古屋方面に送られた。また、水内郡小根山(おねやま)村(小川村)の九兵衛は、文化十二年に麻荷を大坂まで出荷していたのであった(災害史料⑫)。いっぽう、楮皮は和紙の原料として取り引きされるとともに、和紙はおもに善光寺の商人に買いとられたのである。なお、松代藩では、御用紙と称して人詰(にんづめ)帳など藩で用いる紙を山中地域から公定値段で買い上げていた。

 定期市などに参加する他所商人が宿泊したのが商人宿(やど)(商人荷宿(にやど))である。その場合、宿を営む者は、単に他所商人に宿泊施設を提供するにとどまらず、彼らから仕入れ金を預かり、前貸し金融などを通じて商品の集荷をおこなうなどの役割を果たしていたのであった。入山(いりやま)村(芋井)の兵左衛門は、元禄七年に藩から麻宿肝煎(きもいり)を申しつけられており(『県史』⑦一〇〇四)、延享四年(一七四七)には、瀬脇(せわき)村(七二会)から商人宿の取り締まりに関しての請書(うけしょ)が松代藩に提出されている(『県史』⑦一〇一二)。さらに、明和二年(一七六五)には、橋詰村(七二会)の七郎次・治右衛門にたいして藩から麻荷宿免許状があたえられている(『七二会村史』)。

 天保十一年(一八四〇)「御領内寺社並(ならびに)村役人御請連印荷宿御書上帳」(『関川千代丸収集文書』県立歴史館蔵)によれば、当時笹平村には五軒の商人宿があり、そのほか石川村(篠ノ井)一軒、山田中(やまだなか)村(小田切)一軒(麻荷宿)、新町村一五軒、湯田中村(山ノ内町)一軒(ただし、これは肴(さかな)荷宿)となっていた。湯田中村を除いた商人宿は麻荷宿が中心であったとみてよいであろう。

 松代藩は、文化十三年から麻・紙などの仕入のために領内に入りこむ他領商人にたいして、腰札(こしふだ)を配布するとともに冥加金(みょうがきん)を徴収することとした。そのさい、領内の麻商人については、冥加金は不要とするものの、産物掛りの勘定役へ申しでて腰札を頂戴するよう申しつけている(災害史料⑪)。麻については、領内商人といえども統制の対象であったのである。