長野市域において、正保期の時点では、善光寺・松代・笹平以外にも原町(原村)(川中島町)で六斎市(あるいは五斎市)が開かれていた。原町の定期市が近世を通じて開催されていたのかどうかわからないが、天保九年以降については市の「定」が残っており(『昭和小学校所蔵文書』長野市博寄託)、幕末期には十二斎市が立っていた。また、市域外では、同じころ須坂(須坂市)、中野(中野市)、飯山(飯山市)、新町(信州新町)、稲荷山・矢代(千曲市)では九斎市が、福島(ふくじま)(須坂市)、小布施(おぶせ)(小布施町)、牧之島(まきのしま)(信州新町)、境町(さかいまち)(上条村の西端、信州新町)などでは六斎市が開設されていた。そして、問御所(といごしょ)村(鶴賀問御所町)の寛政四年(一七九二)「村明細帳」には、善光寺町のほか須坂の市まで米穀を出すとの記載があり(『久保田家文書』県立歴史館蔵)、赤沼村(長沼)の宝暦十四年(明和元年、一七六四)「村明細帳」によると、同村は善光寺・松代・小布施・中野・須坂の五つの市と関係があったという(『長野市史考』)。それぞれの市の商圏はかなり遠方までおよび、しかも幾重にも重複していたのである。
戸部(とべ)村(川中島町)は、元和八年から享保二年まで上田領で、一二年間の幕府領時代をはさんで享保十五年からふたたび上田領となって幕末にいたる。同村では、幕府領時代の享保十二年に米穀・薪(たきぎ)市の開設を代官に申請した(『県史』⑦一五五一)。村内にはかつて九斎市が立っていたが貞享(じょうきょう)年間(一六八四~八八)以前に中止されたという。米穀市を新たに必要としたのは、年貢石代納(こくだいのう)の時期に周辺藩領で穀留め政策が実施され、米穀の売り払いがむずかしいという理由による。背景には、幕府領となって年貢が皆石代納(かいこくだいのう)に変わり、米穀換金市場の必要性が高まったことがあった。なお、市開設の成否は不明である。
つぎに、市域外で開かれていた定期市のうち、松代領のものを中心にみよう(図1)。
新町村(信州新町)への市立て免許状は、慶長十二年(一六〇七)七月に松平忠輝(ただてる)の重臣松平清直(きよなお)・花井吉成(はないよしなり)・山田重辰(しげとし)の三人の連署によって出されている(『県史』⑦一五四九)。「定(さだめ)」には、この市は九斎市であること、穂刈(ほかり)近在では商人を宿泊させないこと、麻は許可なく他所へもちださないこと、などが記される。同所は、もとは穂刈村(郷)とよばれていたが、新町が形成されて市が立ち、中心もここに移って新町村となったのである。なお、新町村からそう遠くない牧之島村・境町(ともに松代領)にも近世初頭から六斎市が立っていた。そして、牧之島の市は、延享三年の時点では九斎市に発展している(『上水内郡誌』歴史篇)。いっぽう、境町の市については史料がほとんど残っていない。比較的早い段階で衰退したのかもしれない。
新町・牧之島・境町の市で取り引きされた商品は、麻・楮(楮皮)・和紙・漆(うるし)の実(蝋(ろう)の原料)・薪・塩・穀物・四十物(あいもの)(干魚・塩魚類)・煙草(たばこ)・日用雑貨などであった。とくに、麻は地元で生産されたものばかりでなく、現鬼無里村・中条村・小川村、および長野市七二会に属する村々から新町に大量に運びこまれて、売買されたのである(『県史』⑦二七三)。煙草については、松本町(松本市)の中馬(ちゅうま)荷問屋茶屋伊右衛門の貞享三年「大福帳」に、煙草仕入れ先として牧之島村四平ら四人の名前があがっている(合計三万七六六九斤(きん)、一七九両一分余)(『県史』⑨三七)。また、同町麻屋九左衛門の元禄七年「万(よろず)荷物帳」にも、煙草をふくむ商品の購入先として牧之島村や水内郡竹生(ちくぶ)村(小川村)が記載されている(『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』②)。茶屋や麻屋に出荷された商品が市を通じて集められたものかどうかは不明であるが、市で取り扱われたさまざまな品物は、江戸や善光寺町のみならず、松本町を経由して伊那谷や名古屋方面へも移送、売却されたのであった。
鬼無里村の市は天和(てんな)三年(一六八三)に開設が許可された(『鬼無里村史』)。当初は六斎市であったが、その後九斎市に発展している。安永二年(一七七三)時点ではすでに九斎市となっており、市日は一・二・八の日であった。鬼無里の市で取り引きされた商品はその大半が麻とみられる。麻生産が盛んな同村には、麻商売にたずさわる者も多く存在した。天明三年(一七八三)三月に、麻商人である鬼無里村七人と日影(ひかげ)村(鬼無里村)一人は、村民が麻不作により困窮に及んでいるとして合力金(ごうりききん)の提供と取替金(とりかえきん)の無利息年賦返済を松代藩に申しでて、帯刀御免や諸役免除などの褒賞(ほうしょう)を得ている。鬼無里村の麻商人七人が申しでた合力金は、徳左衛門の二二一両余、五左衛門の二一両余など合計八九三両余、無利息年賦返済金高は三三一両余にのぼった(災害史料③)。麻の取り引きがこの地域の経済にあたえた影響の大きさをうかがうことができよう。なお、元禄二年の「紙運上帳」には、鬼無里村で三三人が運上金を納めていたとある(『上水内郡誌』歴史篇)。市では楮(楮皮)や和紙も取り引きされたものと思われる。
栃原(とちはら)村(戸隠村)に市が開設された時期については明らかでない。しかし、寛政五年(一七九三)には、三・八を市日(つまり六斎市)とする「定」が残っているので、開設されたのはそれ以前である。栃原村やその周辺地域はとりわけ紙漉(かみすき)が盛んであり、近世初期から和紙(山中紙)の生産がおこなわれていた。そして、幕末期には紙漉人数も増加し、嘉永二年(一八四九)「六箇(か)村紙漉役人別御書上帳」によると(『県史』⑦九八〇)、栃原村(平組・西条組)合わせて一一四人、志垣(しがき)村三八人、追通(おっかよう)村六〇人、上祖山(かみそやま)村七三人、下祖山(しもそやま)村(以上戸隠村)二二人の計三〇七人がいたことがわかる。また、栃原村やその周辺地域では麻や漆の栽培もおこなわれていたので、栃原の市では楮(楮皮)・和紙を中心に、麻・漆・漆の実、さらには薪などが取り引きの対象となったと考えられる。
上田領の稲荷山村(千曲市)は北国西(ほっこくにし)街道(善光寺道)の宿場でもあるが、同村の市は近世初頭に桑原(くわばら)村(千曲市)から移したものと考えられている(『桑原村誌』)。宝永三年(一七〇六)の「差出帳」には、一・五・八の九斎市であったと記される(『大日本近世史料 上田藩村明細帳』下)。稲荷山の市では塩や雑穀、四十物(あいもの)(干魚・塩魚類)、楮(楮皮)、日用雑貨などが取り引きされた。そのうち、楮については、寛延三年(一七五〇)に松本藩預り所である麻績町(おみまち)村(東筑摩郡麻績村)に新たに楮市が開設されたことから、これまで稲荷山の市に楮を出荷していた山中村々とのあいだで宝暦三年(一七五三)に争いがおこっている。麻績市へ送るには駄賃などの経費がかさむうえに、麻績の楮問屋や近在の紙漉人(かみすきにん)たちが「心のままに相場を立て」るために損失をこうむっている。紙漉の開始・終了時期も勝手にとりきめ、「村々一統に迷惑至極(しごく)」である。こうした理由から、山中村々は松代領から麻績市へ通じる出口の口留番所(くちどめばんしょ)において領内楮荷物を差し止めるよう願いでたのであった(『県史』⑦一〇一三)。
松代領では、八幡(やわた)村(千曲市)でも市が立った。八幡の市は、寛永二十一年以前に九斎市が立っていたが、同二十一年と慶安二年(一六四九)の二度の火事で中断し、元禄六年に再開が許されたものであった(『更埴市史』②)。再開後の市も九斎市であり、稲荷山の市とほぼ同様の品物が取り引きされた(図1)。
北国往還松代通りの宿(しゅく)であり、慶長十六年松平忠輝によって伝馬証文をあたえられて成立した松代領福島(ふくじま)宿(須坂市)においても正保四年(一六四七)から市が立っている(『新史叢』⑱三三一頁)。同宿からは、北は布野(ふの)の渡しをへて長沼宿(長沼)へ、南は川田宿(若穂)から松代城下へとつづく。また、福島村の中ほどで東方へ分岐(ぶんき)する大笹(おおざさ)街道があって、上州・江戸への近道となる。福島宿に市が開設されたのも、同地が交通の要衝(ようしょう)にあって物資の集散に重要な役割をはたしていたことと関係があろう。開設当初の市日は、二日・五日・九日・十二日・十五日・十九日の六斎市であり、通常の六斎市とは市日の立てかたが違っている。周辺で開かれていた定期市の市日とのかかわりで変則的な開催となったと考えられる。
北国往還の宿である松代領矢代宿(千曲市)でも正保期(一六四四~四八)には九斎市が立っていたとされる。しかし、福島・矢代の両市に関しては、今のところ史料がほとんどなく、その後の推移が不明である。