毎月きまって何日か開かれる定期市とは異なり、日市(ひいち)とよばれて、年に一回か二回、期間をきめて開かれる市もあった。馬市はそうした日市の代表的なものである。松代領の馬市は、真田氏入封以前は馬喰町・肴町などで開かれていたという(『松代町史』下)。そして、その後は、馬の飼育が盛んであった山中地域の新町(しんまち)村(信州新町)、栃原(とちはら)村(戸隠村)をはじめ、同地域から善光寺平への出入り口に位置する小市(こいち)村(安茂里)などで開かれていた。
小市村の馬市の記述は、寛文十一年の「御町間(ちょうけん)帳」にもあって(『県史』⑦六八八)、伊勢町・中町・荒神町・肴町・鍛冶町の五町の役儀(やくぎ)の一つに「小市村馬市へ御馬まいり候時伝馬出(いだ)し申す事」があげられている。小市村の馬市には、松代藩からも馬奉行三人、目付(めつけ)一人、徒(かち)目付一人、小頭(こがしら)二人、足軽(あしがる)五、六人、金(かね)奉行が出張し、一週間ほど滞在して馬の見分(けんぶん)をした。そして、良馬を見立てて城下へ引き連れて帰り、家老の見分をへて買い上げ馬(三~六匹(ひき))を取り決めたとされる(『松代町史』下)。そして、藩で買い上げた残りの馬が一般用として売買されたのである。この馬市は、はじめ毎年十月朔日(ついたち)より晦日(みそか)までであったが、その後二十日、十五日までとしだいに短縮され、宝暦十三年に廃止された(同前書)。
しかし、その後、文政四年にいたり馬市は再開されることになった。同年は「試(ためし)市」ということで、同年正月には郡奉行から、①期間は二〇日間とし、馬市の日数は七日、残り一三日は庭市としたい。②前々は目付が出役していたが、「試市」であるので徒目付一人、馬役一人、馬乗一人、小頭一人、足軽二人、毛付改(けつけあらため)一人、中間(ちゅうげん)二人など総勢一五人を出役(しゅつやく)させたい。③馬売買口銭(こうせん)や商人腰札冥加銭(みょうがせん)などについては、半分を上納し、半分は村方へ支給することにしたい。④先年のとおり、役人送迎の人足や幕・馬具などの持ち運び人足は小市村より差しだし、出役のさいの荷付け馬は、松代町(前記の松代五町)より差しだすこととしたい。⑤先年は、御林から松木を切りだして馬市のあいだの御用薪に用いたが、今回は「試市」であるので、小市村の負担にさせたい。⑥先年は、切りだした材木で小市村の出入り口に木戸をつけたが、今回は簡略に松葉などで形ばかりこしらえることにしたい。⑦馬市再開につき、小市村村高のうち二〇石の船頭(せんどう)分諸役御免分を引き、残りの半高(一五一石余)を諸役御免としたい。また、郡役人足(こおりやくにんそく)は二人分を免除したい、など一六項目にわたる伺い書が家老に提出された。そして、当面は郡奉行の伺いのとおり実施されたようである。翌五年の馬市は収益よりも出費のほうが多く、かならずしも成功というわけではなかったが、遠く秋田からも馬が引かれてきたという(災害史料⑫ ⑬)。
新町村の駄馬(だば)市(藩による馬の買い上げはおこなわれない)については、明和六年の「定」から、毎年四月三日から十七日までと八月十五日から晦日までの二回開かれていたことがわかる(『県史』⑦一〇一五)。しかし、その後、文政五年七月には、新町村の多喜八が八月十二日から二十六日まで馬市を開催したいと願いでて、許可されている(災害史料⑫)。したがって、新町村の馬市も途中で中断していた可能性がある。また、このあとも馬市が継続されたかどうかは不明である。
栃原村の駄馬市は、寛政五年時点では毎年一回、三月二十五日から四月十日まで開かれていた(『上水内郡誌』歴史篇)。山中村々では多くの馬が飼育され、生産活動を助けるとともに中馬(ちゅうま)・手馬(てうま)として荷物の輸送にも使用された。また、水内郡山穂刈(やまほかり)(信州新町)、立屋(たてや)・小根山・瀬戸川(小川村)の各口留番所役人から松代藩へ提出された文化十四年の届出書に「御領分山中村々より、前々松本御領分大町村(大町市)ならびに松川村(北安曇郡松川村)と申すあたりまで、作馬当月(三月)二十二日ころより来月八日ころまでに、およそ七、八百匹(ぴき)ほどひき出し貸し候」とあるように(災害史料⑪)、毎年苗代(なわしろ)の季節には代掻(しろか)き馬として飼い主とともに抱(かか)えられ、松本平や善光寺平に貸しだされて、利用されたのであった。山中村々にとって、馬市は農耕馬や運送馬の供給・購入の場として重要な役割をになっていたのである。