善光寺町や松代城下町は、近世前期から年貢米・籾(もみ)の販売や非自給物資の供給を通じて領外市場と結びついていた。東北信で木綿栽培が盛んになるのは一八世紀になってからであるが、それ以前においては綿布あるいはその原料である繰綿(くりわた)(木綿から実をとっただけの精製してない綿)・篠巻(しのまき)(綿打ちしたあとの撚(よ)りのかかっていない太い綱状の繊維束)はおもに畿内(きない)方面から移入されていた。善光寺町では、延宝九年(天和元年、一六八一)に河内富田林(かわちとんだばやし)(大阪府富田林市)の商人と繰綿荷物の代金をめぐる争いがおこっている。また、塩は瀬戸内(せとうち)地方でつくられたものが入ってきたが、その主要な移入経路は今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)・高田(同市高田)・柏原(かしわばら)(信濃町)経由であった。そして、一九世紀になり千曲川通船が就航するようになると、高田から富倉(とみくら)峠(飯山市)越えで飯山町(同)に運ばれ、そこから善光寺平に移送されるものもみられるようになった。天保期(一八三〇~四四)には、善光寺町の塩問屋に入る塩は年間二万駄ともいわれるが、その一部は飯山町の塩問屋を経由したものがふくまれていたのである。さらに、松代藩などでは領民から年貢として徴収した籾や米のうち、江戸廻米分や地元商人(穀屋・酒造人)への販売分などを除いた余(あま)りは上州(群馬県)などの畑作地帯で売却していたのであった。
近世中期になると、善光寺平でも木綿や菜種をはじめとする多くの商品作物栽培が盛んになった。また、水油・煙草(たばこ)などの加工品の生産も活発になり、中馬(ちゅうま)・手馬(てうま)などの輸送手段の普及ともあいまって、領外市場との結びつきはいっそう強まった。明和元年(一七六四)十二月には信州中馬と宿駅との紛争に幕府の裁定がくだされたが(「明和の裁許」)、この結果、松本町から善光寺町までの北国脇往還(北国西街道)の中馬往復荷物として、米穀類・炭・薪(たきぎ)・酒・油粕(あぶらかす)・楮(こうぞ)・紙・煙草・茶が認められた。また、追分宿(北佐久郡軽井沢町)から善光寺町までの北国往還(北国街道)では、米穀類・塩・茶・肴(さかな)・立具類・鉄物(かなもの)・集物(あつめもの)が認められた。さらに、東北信から上州・江戸への近道となる大笹街道を通じても水油・煙草・米穀・生糸など多くの荷物が移出された。鳥居(とりい)峠(小県郡真田町)が別名「油峠」とよばれたように、高井郡で生産された水油の多くが鳥居峠をへて北上州や江戸に出荷されたのである。
また、寛政四年(一七九二)には、松代領山田村(千曲市)の小八が仕入れた藍(あい)荷物が坂木宿(坂城町)で差し止められた事件がおこっている(更北青木島町 柳島啓也蔵)。藍は武州(東京都・埼玉県)から仕入れたものであったが、中馬・手馬荷物としては認められていなかった。藍が善光寺平でも栽培されるようになり、村々でも紺屋が増加するのは近世後期になってからであるが、それ以前には、藍は武州などから移入されていた。
松代領では、化政(かせい)期(一八〇四~三〇)に養蚕業が普及し、製糸業が盛んとなった。松代町には文化七年(一八一〇)以降に糸市がたって、そこで生糸が取り引きされるようになった。また、松代領南部の埴科・更級両郡上郷(かみごう)を中心に絹・紬(つむぎ)類の生産が発達したのを背景として、天保初年には松代町に紬市が開設され、領内外の商人が松代に集まった。天保五年(一八三四)の場合、その数は六九人を数えるが、そのなかには三井越後屋や大丸屋など江戸の大商人もふくまれていた(『更級埴科地方誌』③上)。絹・紬類は、買い継ぎ問屋や近郷商人にも買いとられたが、最終的には領外市場に出荷されたのである。
薬用に用いられた杏(あんず)(種からとれる杏仁(きょうにん))や甘草(かんぞう)の栽培普及のようすについては前にみたが(『市誌』③五章四節)、杏仁は寛政期(一七八九~一八〇一)ころには善光寺町や松代町の商人の手をへて江戸向けに販売されるようになった。また、甘草も天保期には善光寺町・松代町・上田町の商人などに販売された(越中(えっちゅう)富山などに送られるものもあった)。嘉永元年(一八四八)には、佐久間象山の発案によりこれら二品は藩の専売品に指定され、大坂の炭屋彦五郎のもとに送られて、大坂からは塩・蝋(ろう)・砂糖・鉄物類・畳表(たたみおもて)などを移入することになった。なお、この専売制は、買い占め資金の不足や抜け荷の横行などによって短期間で失敗してしまった。
ところで、領外市場との結びつきは単に商品だけが移動し、売買されたという面にとどまらなかった。行商などの形態をとって、長野市域の百姓や商人が領外へ出かけていくこともしばしばみられた。「御用日記」(『小林家文書』長野市博蔵)から塩崎知行所支配の更級郡今井村(川中島町)の文化十二年の事例をみてみよう。この年の二月に、今井村庄屋から氷鉋(ひがの)役所あてに同村西組戸澤源重郎がおよそ一ヵ月間江戸に木綿布商売に出かけたいとする願書が提出されている。また、同村町組の栄右衛門は七月下旬から十一月晦日(みそか)まで、同村西組豊次郎も同じく七月下旬から十月二日まで甲州(山梨県)へ蚕種販売に出かけている(二人以外にも、西組要助が上州(群馬県)へ蚕種販売をおこなっていた)。蚕種の販売においては「旅出(たびで)」とよばれる行商的な方法がとられていたのであり、蚕種販売人は、蚕種を「種場(蚕種場(たねば))」とよばれる得意先地域の養蚕農家に予定値段で貸しつけて、蚕の豊凶によって加減しつつ翌年に代金を回収したのであった。さらに、八月には西組要三郎が九月朔日(ついたち)から下旬まで上州へ、町組新兵衛が八月六日から十二月二十七日まで三州(三河国)へそれぞれ薬販売に出かけている。そして、戸澤源重郎の父治郎吉も江戸に小間物販売に出かけて、十二月に帰村した。北国街道沿いに位置する今井村では、穀物商売、小間物商売をはじめ諸稼ぎが広く展開していたが、彼らの活動範囲は善光寺平はもとより国外におよび、範囲も江戸をふくむ関東一円に広がっていたのであった。