木綿・油・煙草仲間の結成

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商業活動が活発化し、農村商人(在方商人)が台頭したのにともない、統制や相互扶助、利益の確保などを目的として、町方をふくむ各地にさまざまな仲間組織がつくられた。仲間組織のいくつかをみてみよう。

 宝暦期(一七五一~六四)以降、善光寺平では木綿生産が盛んとなり、このころから木綿仲間の結成と製品の規格統一を求める動きが活発化した。明和元年(一七六四)には高井郡幕府領村々の紬(つむぎ)・木綿商人仲間が中野村(中野市)市場へ出荷する製品の寸法遵守(じゅんしゅ)を織元(おりもと)の名主に求めたのをはじめ、安永五年(一七七六)には、善光寺町やその周辺村々の商人を中心とした水内郡木綿布仲間(松代領、一部幕府領・飯山領をふくむ)が松代藩にたいして綿布は丈(たけ)二丈六尺、幅(はば)九寸五分で織りだすよう指導してほしいと願いでている(『市誌』⑬三二六)。この仲間は、寛政元年(一七八九)には不正売買の禁止や仲間加入の方法などについて規定を取り決め、文化七年(一八一〇)にもこれを確認している(文化七年当時の仲間人数は一五〇人)。

 松代藩は、文政二年(一八一九)には、他国産にくらべて尺幅(しゃくはば)が小さいために販売が不振となっていた綿布について、丈は二丈八尺以上、幅九寸六分以上とするよう改め、これに違反した売り主の名前を公表するとした。仲間は、仲間の統制や他組との交渉のために世話役や行司をおいていたが、前に記した水内郡木綿布仲間の場合も、新町(しんまち)口(組)、後町(ごちょう)口(組)、吉田組、浅野組など地域別の仲間を重複して組織していたのである。

 松代城下町に、新馬喰町・五反田(松代町清野)、東寺尾村(同東寺尾)などが加わった木綿商人仲間も、文化十三年には「木綿仲間取極帳」(『伴家文書』長野市博寄託)を作成し、篠巻(しのまき)の目方、繰綿(くりわた)・実綿の打ち賃や挽(ひ)き賃、挽き子の統制などを取り決めた。木綿仲間は、綿布のみならず綿製品の原料となる篠巻・繰綿も取り扱っていたのである。篠巻・繰綿は、寛政期には北信(奥筋とよばれた)から大量に上田領に移出されている。このため、上田領への販売活動をおこなう奥筋木綿商人仲間は、文化元年には善光寺組・松代組・川北(かわきた)組・福島(ふくじま)組の四組に編成されたのであり、ここに同三年には稲荷山(いなりやま)組、同五年には川中島組(川中島・戸部(とべ)・氷鉋(ひがの)村組)が新たに加わっている(『県史』①七一六)。なお、仲間の結成は木綿布や篠巻などの仕入・販売にたずさわる商人だけでなく、挽き子(ひきこ)すなわち綿打ち職人にもおよんでいた。天保二年(一八三一)には善光寺領箱清水村(箱清水)の綿打ち職人仲間が打ち賃を定めている(『市誌』⑬三〇〇)。また、慶応二年(一八六六)には須坂領綿内村(若穂)の綿打ち職人一九人が世話人四人をおいて、藩に運上金三分三朱余を納めている(『旧綿内村役場文書』長野市博寄託)。


写真9 文化13年(1816)木綿仲間取極帳
(『伴家文書』長野市博寄託)

 木綿とならぶ商品作物である菜種の栽培普及にともなって、水油を取り扱う商人の仲間も結成された。寛政期には仲間が組織されており、同二年には高井郡の油屋仲間が仕入れ値段や販売値段の申し合わせをしている(『中野市誌』)。また、寛政五年にも、高井郡の油屋七六人が原料となる油草(菜種)の不正買い入れの禁止や仕入れ値段の決め方などを取り決めた。最近相場を考えないで原料を買いとるものがあらわれ、規律が乱れてきたというのが「油屋仲間定書」(『県史』⑧八七六)を定めた理由であった。この仲間組織は、中野・小布施・須坂・川辺(かわべ)の四組に分かれていたが、幕府領・須坂領・松代領の村々をふくんでおり、藩領域をこえての組織であった。

 善光寺町では、安永期(一七七二~八一)に、水油の集荷・販売に従事した油屋(油商人)から分離・独立した油大工とよばれる油絞りの職人たちが仲間を結成し、手間賃などを取り決めている(『市誌』③五章四節)。また、嘉永二年(一八四九)には、川中島平を中心とした更級郡・埴科郡村々四三ヵ村の油屋七六人が支配領域をこえて川中島組仲間(東組・西組・南組・北組・中組の五組)を結成している(『県史』⑦一〇八八)。川中島組仲間の場合は、原料の買い入れ、油絞り、卸売りまでもおこなっていたが、輸送をともなう販売はおこなわなかった。それをおこなったのは仲買人である荷負い仲間であり、分担を決めて両者が共存していたのである。

 高井郡を中心とする煙草商人も仲間を結成した。安永五年に結成された煙草頼母子講(たのもしこう)に参加したのは、高井郡須坂村(須坂市)一二人、塩川村(同)三人など合計二八人であり、長野市域からは綿内村の一人が加わっていた。煙草はおもに関東地方に移出されたが、仲間結成の目的は講掛け金によって道中の災難に備えるという相互扶助にあった(『須坂市史』)。