穀物・酒造仲間の結成

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穀物や酒など食料品を取り扱う商人も仲間組織をつくった。松代領では宝暦期(一七五一~六四)に月割り上納制が導入され、百姓は年貢米を販売、換金する必要にせまられた。この結果、松代城下町や善光寺町、さらには村々にも多くの穀屋(穀物商人)が生まれた。松代城下町では、文化年間(一八〇四~一八)にはすでに穀屋仲間が結成されていた(『県史』⑦一〇六八)。また、小松原村・布施高田村(篠ノ井)、上小島田(かみおしまだ)村(更北小島田町)など川中島平の村々の穀屋も文化・文政期(一八〇四~三〇)ころには仲間を組織していたと思われる(「川中島通り」穀屋仲間)。その後天保四年(一八三三)十二月に、小松原村の善五左衛門ほか三人の穀屋行司、石川村(篠ノ井)忠左衛門ほか一人の穀屋惣代(そうだい)は、冥加(みょうが)金として一〇両を上納し、藩から鑑札(免許)を受けたいと願いでた(『県史』⑦一〇五七)。仲間以外の穀物商人が新規に商売を始めたために、十分な仕入れができず、しかも高値の仕入れになってしまうというのがその理由であった。この穀屋仲間の規定ではつぎのことを決めている。①仲間人数を八一人と定め、各村ごとに惣代をおき、さらにその上に四人の行司をおいて仲間を統制すること。②酒造商売の者は穀屋から籾を仕入れること。③村内の者が他領穀屋へ売り渡すさいには、村内の穀屋の了解を得ること。④手馬稼ぎの者へは、村の穀屋からそのときの相場で穀物を買いとらせるようにすること。⑤穀物相場は行司が取り調べて藩に知らせること。なお、仲間は、鑑札交付と引きかえに、社倉(しゃそう)を設置して籾三〇俵ずつ毎年備蓄し、町方での穀物不足あるいは不作で難渋者が出たときには融通をはかることを申し合わせている。

 南長池村・北高田村(古牧)、大豆島(まめじま)村(大豆島)、吉田村(吉田)、三輪村(三輪)など犀川北がわの平野部を中心とした村々の穀屋(「川北通り」穀屋仲間)は、文政十二年に仲間規定を定めて不正売買の禁止などを取り決めていた。しかし、他領の穀物商人が入りこんで営業が阻害(そがい)される状況を背景に、安政六年(一八五九)十一月に、松代藩郡(こおり)奉行所に鑑札の交付を願いでた。これは川中島穀屋仲間の前例を参考にして願いでたものであった。また、東川田村・保科村・小出村・町川田村(若穂)、高井郡仁礼村・同福島村(須坂市)など善光寺平南東部の村々の穀屋(「川東通り」穀屋仲間)たちも、万延元年(一八六〇)十月に、不正の取り計らいをしないことなどの規定を定めて、松代藩郡奉行所に鑑札交付を願いでている(『県史』⑦七一九)。このほか矢代村(千曲市)や羽尾村(千曲市)などの「川南通り」とよばれた松代領南部村々の穀屋や、水内郡南牧村(信州新町)など山中村々の穀屋たちも、同じころ同様に藩から鑑札の交付をうけた。こうした動きは、鑑札の交付をうけて有利に穀物の仕入れ・販売活動をおこなおうとする穀屋仲間と、穀物相場の安定をはかりつつ領民への安定的な穀物供給をはかろうとする藩の利害とが一致した結果であるとみることができる。

 善光寺町の穀屋も「川北通り」穀屋仲間に加入していたと思われるが、町方を単位とした仲間も重複して組織していた。天保三年には、北方穀屋仲間、西町穀屋仲間、東町穀屋仲間のあいだで行司の選出をめぐって争いがあったが、新町穀問屋惣代弥兵衛が仲裁をして北方穀屋仲間から年行司一人をたてることで和談が成立している(『今井家文書』県立歴史館蔵)。また、同六年の問御所(といごしょ)村(鶴賀問御所町)行司新兵衛らが善光寺三方穀屋行司へ差しだした「取り極め一札の事」(『市誌』⑩三四二)には、「穀商売の儀は、前々より善光寺御仲間へ加入つかまつり、これまで万事馴れ合い商売つかまつり参り候」とある。さらに、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震以降は穀物商売の取り扱いがまちまちになったとして、文久三年(一八六三)七月に、仲間は新たに議定を定めた。おもな内容はつぎのとおりである(『県史』⑦一三四九)。①穀物の値段は陽気を見計らい行司たちが相談して決めること。②水車屋仲間に加入していない者には搗挽(つきひ)きのための穀物を渡さないこと。③穀商売を新たに希望する者は、行司に申しでること。④そのさいの披露(ひろう)・振る舞いには仲間一同と水車屋行司を招くこと。⑤せりの売買はしないこと。なお、この仲間加入者は、西町の彦右衛門ほか六三人であった。


写真10 文久3年(1863)善光寺町穀屋仲間規定書
(更北青木島町 露木彦右衛門蔵)

 酒造仲間もあった。松代領の酒造人三四人は、藩の酒造勝手造り停止令をうけて、文政九年に仲間規約を定めた(『県史』⑦九六一)。内容は、①酒値段は、米穀値段に応じて仲間が相談して決めること、②持ち株の譲り渡しは行司へ申しでて、仲間で相談して決めること、③休株・無株のものが隠し造りしていることを見つけた場合は行司へ訴えること、④売り子衆へ新規に酒を売り渡す場合は、勘定がすむまでは販売を差し止めること、⑤仲間にかかわる紛争において、訴訟になった場合の費用は、半分を造り高に応じて、残り半分を軒割りで負担すること、⑥仲間の相談ごとは、行司から回状するので会合にはかならず出席のこと、などである。この仲間への市域からの参加者は、小市(こいち)村(安茂里)源吾、真島村(更北真島町)与右衛門、吉田村(吉田)久左衛門・儀兵衛など一四ヵ村一五人である。また、これとは別に三輪村近辺の酒造人一三人も仲間を結成していた。規定書は弘化四年のものが残っているが、そこには、これまで数度取り締まり書に調印してきたと記されるので、結成はこれより前である。仲間は、酒の販売値段や不正な酒造の禁止を取り決め、違反者には過料を課すなどした(三輪島津敏男蔵)。