各種商人仲間の結成

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養蚕業が普及・発展すると、蚕種や繭(まゆ)、生糸を取り扱う者たちの仲間も組織された。寛政十三年(享和元年、一八〇一)、上田領の蚕種販売人を中心に信州一国を単位とする仲間組織「神明講(しんめいこう)」が結成された。蚕種販売人たちは蚕種製造者であることも多く、また仕入れ活動に従事することもあったが、彼らは出身地域を単位にしたもの、あるいは販売地域を単位にしたものなど、幾重にも重複した仲間を結成していた。文化十一年(一八一四)の上田領蚕種仲間には川中島組仲間も加わっており、奥州・野州(やしゅう)・上州・武州・相州(そうしゅう)五ヵ国の行司あてに不正蚕種を取り扱わない旨の規定証文を提出している(『県史』⑦一〇三三)。なお、松代領では、天保期には「領内蚕種師(たねし)世話役」がおかれている。天保七年(一八三六)時点では領内で二四人が任命されているが、かれらは領内の蚕種製造者・販売人の統制や他領蚕種製造者・販売人との交渉にあたったのである(『県史』⑦一〇六九)。


写真11 天保7年(1836)郡中蚕種師世話役村訳帳
(『松代八田家文書』国立史料館蔵)

 松代領や須坂領では、糸師(糸元師)や繭仲買人が仲間を結成した。糸師とよばれる糸商人は、はじめは養蚕農家から直接繭を購入し、専属的に抱えこんだ挽き子(ひきこ)に供給して、できあがった生糸を回収・販売していた。また、繭仲買人も、繭を買い付け、それを繭市などで売買するほか糸師にも売り渡していたのであった。したがって、繭の買い付けをめぐって両者は対立し、お互い少しでも有利な立場を確保しようとつとめたのである。

 松代領の糸師仲間は文政二年(一八一九)に結成され、翌三年からは鑑札の交付と引きかえに一人年六匁ずつの冥加銀(みょうがぎん)を藩に上納することになった。また、同十年には繭仲買人たちの仲間の結成も許可されて、同様に一人年銀一〇匁の上納が義務づけられた。藩がこうした仲間組織の結成を認めたのは、仲間規約を通じて不法な商業行為の自粛を求め、同時に彼らにたいする統制をはかろうとしたためであった。糸師が個々の養蚕農家から繭を買い入れることは、文政元年に繭問屋が設立されたために禁止され、繭は繭市を通じて繭問屋に集められた。その後、同七年に繭問屋が廃止されるものの、文政十年からは繭仲買人を通じて集められた繭が繭売買所(繭市の機構が改められたもの)で取り引きされることになって、糸師たちはここから繭を購入するようになったのである。天保三年に設置された産物会所は、引き負い金が養蚕農家や挽き子に損失をかけているとして糸師仲間を解散させたが(『市誌』⑬三三五)、この措置は、生産意欲を高めて品質を向上させるために、挽き子を糸師から独立させるという糸会所の方針を引き継いだものであったといえる。その後、新規参入の糸師たちのなかには領内・領外の養蚕農家から直接繭を購入する「出買(でがい)」をおこなうものや、繭仲買人から繭を購入するものなどがあらわれた。そこで、藩は、統制強化の必要性からふたたび糸師仲間の結成を認めた。これをうけて、松代町内・町外の糸師たちは、そうした行為を禁止する仲間規定を掲げて天保七年に仲間を組織したのである(『県史』⑦一〇六七)。

 質屋は盗品を扱う可能性があることから、早くから領主の統制が加えられた。また、仲間の結成も早くから認められ、江戸では元禄五年(一六九二)に質屋仲間が成立している。善光寺平での仲間結成の時期は明らかでないが、天保四年には善光寺町の質屋仲間一七人が「質置主・請人(うけにん)印形帳」の前書きに記載すべき内容を決めている。前書きの第一条には、「質入れの品物について、怪しいものであるという者がいたならば、請人がどこへでも出かけてかならずはっきりさせ、質屋には少しも迷惑をかけない」などの文言(もんごん)が記されていた(『県史』⑦一三一九)。仲間は、年行司(ねんぎょうじ)をたてるとともに、月行司は二人が二ヵ月交代で勤めることにしている。

 薬種屋(師)仲間もつくられた。文化十年に、仲間は「神農講(しんのうこう)」を組織し、薬種販売に関する仲間申し合わせを再確認している(『県史』⑧六三四)。この仲間は、松代一人、稲荷山二人、須坂二人、小布施一人、善光寺七人の各惣代のもとに医師・商人・寺院(僧侶)など六六二人が属するかたちで構成されていた。加入者の範囲は北信一帯におよんでいるが、越後・越中(えっちゅう)・加賀といった信濃国以外の者も若干名ふくまれる。なお、薬種仲買仲間も組織されており、仲買仲間は薬種屋仲間の「得意場」(販売地域、顧客)でせり売り、小売りをしないことなどを申し合わせている。

 以上の仲間以外にも、長野市域では権堂(ごんどう)村水茶屋仲間、馬喰(ばくろう)仲間や水車造り職人仲間、紺屋仲間、鋳(い)掛け仲間、古着仲買仲間、糀(こうじ)商人仲間、蕎麦(そば)屋仲間、魚問屋・魚商人仲間、杏干(あんずほし)・杏仁(きょうにん)仲買仲間など、じつに多種多様な仲間が結成されていたのである。