商品流通の発達という観点からすると、善光寺平市場圏における商品は、モノだけではなく、地域の住人、すなわちヒトそのものが最大の商品であった。ヒトが商品だといっても、なにも信州人が人身売買されていたわけではない。信州出身の奉公人が都市に向けてたくさん供給されていたという意味における商品としてのヒトなのである。江戸では、「相模女(さがみおんな)に信濃者」などとよばれ、出稼ぎ奉公人の代名詞になるほど信州出身の奉公人はポピュラーであった。いかに認知されていたかといえば、俳句や川柳では、春の季語として奉公人の入れ替わりを意味する「出代(でがわ)り」があり、ほかに奉公人のたとえとして「信濃者」「信濃」「おしな」があることからもうかがい知ることができよう。
俳人小林一茶は、自身が一五歳のときから江戸で渡り奉公をした経験があり、「出代り」の句を多く詠んでいる。たとえば「江戸口やまめで出代る小諸節」(『一茶全集』①)、あるいは「出代や江戸を見おろす碓井山(うすいやま)」(同前)という句は、中山道を通って江戸へと奉公にのぼるさまを描写している。またなかには江戸に出ていく老若男女(ろうにゃくなんにょ)の哀歓(あいかん)を詠んだ句も多い。「あんな子や出代にやるおやもおや」(同前)は、奉公に出るいたいけな子どもと親の辛さをほうふつとさせるし、「出代や六十顔をさげながら」(同前)は、老体にむち打って働く悲しさが透けて見える。
このように日々の生活のために江戸へ出稼ぎに出ていった信州人は、江戸っ子からは大飯食らいの田舎っぺいと、ややもすればさげすんだ目で見られている。「信濃者三杯目から噛(か)んで喰(く)ひ」(以下、『川柳総合辞典』)あるいは「安ものの米うしなひは信濃なり」というのは、大飯食らいの信州人をひやかす典型である。また冬の到来とともに大挙してやってくる信州人を、椋鳥(むくどり)にたとえることも多かった。「雪が解けると椋鳥も巣にかへり」というのは言い得て妙であるし、「椋鳥も毎年来ると江戸雀」などは、しだいに江戸の暮らしになじんでいくようすがわかる句である。ではなぜこれほどまでに信州の奉公人は有名だったのだろうか。じつはそこにこそ近世社会におけるヒトの移動とそれにともなう社会構造の変化を考えるヒントがあるのである。