まず最初に、そもそも奉公人とは何かについて説明しておきたい。奉公人、なかでも武家奉公人は、近世が成立する以前の戦国時代から広く存在していた。戦国時代には、彼らは雑兵(ぞうひょう)とよばれ、足軽(あしがる)や中間(ちゅうげん)を勤める身分の低い侍であった。戦国時代、とくに織田信長登場以降の統一政権形成期の合戦は、それ以前の騎馬による一騎打ちではなく、鉄砲を利用する集団戦を主体とするものとなり、足軽や中間の需要は飛躍的に増大していた。また大名が軍需物資を用意する「兵糧他弁(ひょうろうたべん)」が取り入れられ、直接的な戦闘要員以外に、大量の武器や兵糧などを運搬する小荷駄(こにだ)隊といった非戦闘員も必要となった。こうして多数の村の百姓たちが夫役(ぶやく)を課されて戦場へと駆り立てられていった(高木昭作『日本近世国家史の研究』)。
しかし、村の百姓たちが戦争へ参加するのは、大名による強制動員だけが理由ではない。百姓たちは生きるために積極的に戦争へ身を投じていたのである。たとえば武田信玄(しんげん)と川中島で死闘を繰りひろげた上杉謙信(けんしん)は、晩秋になると関東や北信濃、北陸方面へ二〇回以上も国外遠征をしていた。遠征パターンは、晩秋から年末にかけての短期年内型と、翌年の春までの長期越冬型があった。このように謙信が農閑期や端境期(はざかいき)になると出兵をしたのは、雪に閉ざされて深刻な食糧不足に悩んでいたからだといわれている。出兵先で領地を分け捕(ど)り、食糧を調達していたのである。この戦国時代の戦争の季節性は、近世初頭の武家奉公人が一年のうちで二月と八月の二回、出替わりをする習俗の原型ではなかったかと指摘されている(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。
だが豊臣秀吉のもとで進められた惣無事(そうぶじ)政策は、しだいに国内での戦場をなくし、天正十八年(一五九〇)の後北条(ごほうじょう)氏の降伏後は、ほとんど戦乱はなくなった。平和な時代には、足軽や中間の戦争での需要はほとんど必要なくなる。しかし同じ時期に彼らを吸収する新たな市場が開拓されつつあった。それは兵農分離が進展する過程で、大名などの武士身分の者は、城下町に居住することが義務づけられるようになり、江戸や大坂を中心に大規模な城と城下町建設がラッシュを迎えた。それに金銀山の開発もあちこちで始められ、こうした普請(ふしん)と作事(さくじ)のために、多数の日雇い労働力が求められた。こうした労働者は「日用(ひよう)」とよばれている。彼ら日用は、日用頭(ひようがしら)とか人宿(ひとやど)といわれる町人の口入れ屋によって雇用されるシステムが、一七世紀初頭にはすでにできあがっていた。日用頭は、大名たちから普請や作事の現場での土木作業を請け負い、また地方から流入してくる百姓を、日用取りとして束ねて、奉公先を世話する役割を負っていた。
それだけではない。いったん江戸を中心とする大都市や城下町が形成されると、そこに居住する大名や武士は、執務するための役所や、日常の居住空間として屋敷を構えることになる。武家屋敷では、若党(わかとう)、足軽、中間、小者(こもの)、草履取(ぞうりと)り、六尺(ろくしゃく)(雑役人)などの多数の武家奉公人が雇われた。加えて都市には町人が居住しており、彼らも下男・下女・乳母を奉公人として必要とした。
ところで江戸幕府は、奉公人政策一般として、一年季あるいは半年季の奉公人の存在を否定することはなく、むしろ容認していた。なぜなら年季奉公人は、幕府や大名にとって必要不可欠であったからである。奉公人は、大きく譜代(ふだい)奉公人と年季奉公人の二種類がある。このうち譜代奉公人は、労働力だけでなく人身そのものを売買され、主人に隷属して、それぞれの家につく存在であった。しかし戦乱が収まり、平和な時代を迎えると、有事のために譜代の奉公人を恒常的に抱えておくことはあまり意味がなく、時代がくだるにつれて財政状況が苦しくなると、譜代を抱えるより、年季奉公人を必要に応じて雇うほうが都合がよくなっていく。また雇われる百姓がわにとっても、農繁期には農作業に従事し、農閑期になったら江戸で出稼ぎの奉公をするのは、一年間の労働サイクルにかなっていた。こうした状況を反映して、幕府は元和(げんな)四年(一六一八)に、それまで二月と八月に二回あった出替わりの期日を、二月二日の一度に限定した。さらに寛文八年(一六六八)以降は、三月五日に変更された。ただし、信州人は引きつづき二月二日である。出替わりの期日が、陰暦の二月もしくは三月に定められたのは、春先の農作業のさまたげにならないようにとの配慮からであった(南和男『江戸の社会構造』)。