善光寺抱元と善光寺門前町人

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つぎに善光寺平における奉公人の供給形態とその変容をながめてみたい(松本良太「江戸奉公人と抱元」)。まず一七世紀から一八世紀半ばまでの奉公人の供給方法は、まずなによりも大名や旗本自身の所領からの徴発であった。善光寺平に所領をもつ大名家や旗本は、松代藩、上田藩、越後国椎谷(しいや)藩飛び地、塩崎知行所などがあげられる。奉公人の徴発は、所領規模の大きい藩では、所領内の組・組合といった行政組織を単位としておこなわれている。たいして、所領規模の小さな旗本知行所では、所領全体に徴発が要請される。徴発にさいしては、陣屋元の割元(わりもと)や大庄屋(おおじょうや)、それに名主ら村役人層が中心となって管轄下の村々に人数を割りつけた。

 ところが、領主支配の枠組みを利用した奉公人の徴発は、一八世紀後半の宝暦~明和期(一七五一~七二)にゆきづまりをみせる。ゆきづまりの原因は、江戸における武家奉公人の供給事情の変化にある。当時の江戸では、番組人宿(ばんぐみひとやど)を通じて、市中から直接奉公人を調達する方法ができつつあり、信州などの村々からの供給は、市中からの調達を補完するものへと変わりつつあった。

 村がわに目を移すと、宝暦・天明期(一七五一~八九)には幕藩体制が転換期を迎え、商品経済の村落への浸透と地主・小作関係の展開により、零細百姓や無高層が地主経営のなかに吸着され、奉公人そのものが減少する結果を招いていた。そこで奉公人の減少を避けたい領主は、「増給(ましきゅう)」をおこない、奉公人の確保をはかった。「増給」とは、奉公人を調達するときに、村落がわの負担において上乗せされる奉公人の給金のことである。ほんらい領主から奉公人に支給される給金に、「増給」を加えて雇用条件を改善し、人数を確保しようと試みたのである。だが「増給」は、小物成(こものなり)などのかたちで最終的には村がわの負担に転嫁され、けっきょく年貢の増徴を招き、そのため最悪の場合、村方騒動や百姓一揆(いっき)を引き起こす原因となった。

 ほかにも「直抱(じきがかえ)」といって、村役人に徴発をゆだねるだけではなく、江戸屋敷の役人を直接所領のある現地へと派遣し、奉公人を召し抱えることもおこなわれた。ちなみに宝暦七年(一七五七)塩崎知行所では、領分村々に五〇人の奉公人徴発を命じたが、安い給金のため人が集まらなかった。そこで塩崎村では、奉公人一人につき「舫金(もやいきん)」二分、計五〇人分二五両を差しだし、江戸で奉公人を調達してほしいと願いでている(『市誌』⑬一三三)。このように「増給」にしても、また「直抱」にしても、個別領主による支配関係を基礎とした徴発という対応策では限界があった。そこで登場してきたのが「抱元(かかえもと)」とよばれる現地世話人を通じて奉公人を供給する方法である。

 「抱元」として活動したのは、善光寺の門前町人、それに善光寺街道の稲荷山宿(千曲市)や谷街道上の小布施村(小布施町)や草間村(中野市)、善光寺近郊の七瀬村(芹田)といった町場化した交通の要衝にある村の居住者、村役人層である。ちなみに安永~寛政年間(一七七二~一八〇一)において「抱元」として判明している善光寺町人には、大門町の藤屋五郎右衛門(旅籠屋(はたごや))、同町の藤屋平左衛門(旅籠屋)、同町の駒屋吉九郎(旅籠屋)、伊勢町の落合重左衛門(善光寺大勧進被官)、東之門町の岩井屋権平、それに居住町はわからないが、鷲沢沢右衛門の名前が知られている。さらに時代がくだって天保三年(一八三二)には、折からの奉公人不足のなか、横沢町の文治郎が、「下方飯山近辺」で奉公人をあっせんするので、口入れをさせてほしいと願いでている(『市誌』⑬二〇九)。


写真12 天保3年(1832)善光寺横沢町文治郎奉公人口入れ業御許可願
  (『今井家文書』県立歴史館蔵)

 もともと「直抱」のために現地に出張した江戸の役人たちが、宿泊先の拠点として利用したのが善光寺町なのであるから、単なる宿泊先としてだけでなく、旅籠屋の主人らに奉公人供給の実務を任せたのは、当然といえば当然の措置であった。しかも「抱元」に委託すれば、奉公人の供給源が自身の所領の枠内に限定されることなく、善光寺平一帯の百姓から自由に奉公人を採用できるという利点もあった。事実、安永二年(一七七三)十月に善光寺平周辺の「抱元」のところに、奉公人の供給を依頼していた大名家は、御三卿(ごさんきょう)清水家(一〇万石)、播磨(はりま)国(兵庫県)姫路藩(酒井家・一五万石)、丹波(たんば)国(兵庫県)篠山(ささやま)藩(青山家・五万石)、肥前(ひぜん)国(長崎県)島原藩(戸田家・七万七千石)、備後(びんご)国(広島県)福山藩(阿部家・一〇万石)、遠江(とおとうみ)国(静岡県)浜松藩(井上家・六万石)、上野(こうずけ)国(群馬県)高崎藩(松平家・八万二千石)、下野(しもつけ)国(栃木県)宇都宮藩(松平家・六万六千石)、相模(さがみ)国(神奈川県)小田原藩(大久保家・一一万三千石)、遠江国相良(さがら)藩(田沼家・三万石)などが確認される(松本良太「江戸奉公人と抱元」)。これらの諸藩は、いずれも信州には所領をもたない大名家ばかりである。そしてその多くが老中や奏者番(そうじゃばん)といった幕府の要職につくことが多い譜代大名で、領地が江戸から遠い、あるいは江戸在府期間が長いといった事情を抱えており、比較的多数の奉公人を必要としながらも、その確保に苦労していた藩が多い。

 つけくわえると幕府の要職につく旗本のなかには、家政や公務にあたって算筆に長(た)けた百姓・町人を、用人(ようにん)として採用することがあった。この用人もまた武家奉公人である。用人である以上、職務上は苗字帯刀(みょうじたいとう)を許され、一時的に武士の扱いとなる。そのため村役人や宿場の本陣・問屋、それに地主、豪農といった富裕な階層の次男、三男が、武家奉公するケースがしばしば見られた。というより彼らこそが、ややもすれば身分制のもとで硬直化しがちであった幕府の行政機構を下支えする役割を負っていたのである(宮地正人『幕末維新期の社会的政治史研究』)。