こうしてさまざまな手段を講じて、大名や旗本は奉公人の確保をはかったが、事態はなかなか好転しなかったようである。寛政期(一七八九~一八〇一)になると奉公人払底(ふってい)をうけて、給金は、それまでの年二両から三両、四両へと高騰した。給金が高騰すれば、それを目当てに奉公人が増えそうなものだが、そうはならなかった。その理由は、出稼ぎ人のがわに奉公稼ぎを忌避(きひ)する風潮が広まったことにある。武家奉公などは、一定期間とはいえ主人の拘束をうける。しかし、裏店(うらだな)あたりに居住して棒手振(ぼてふ)りなどの小商人や小職人をしていたほうが、たとえ利潤は薄くても精神的な自由が得られることから、米価が高騰して生活がよほど苦しくでもならないかぎり、奉公を望まなくなっていたのである(竹内誠「旧里帰農奨励令と都市の雇傭労働」)。
ときあたかも一八世紀末の日本は、天明の大飢饉(ききん)や北関東農村の荒廃をうけて諸国の村々から江戸への人口流出が社会問題化していた。村々の人口は減少し、田畑の荒れ地や手余(てあま)り地が増加し、年貢収納も停滞した。そこで老中松平定信は、寛政二年・三年・五年(一七九〇・九一・九三)の三回にわたって旧里帰農奨励令(きゅうりきのうしょうれいれい)を発し、江戸に滞留していた村落出身者を、旅費や農具代を幕府が負担して帰農させようとしたのである。この法令は、江戸における一時的な奉公人不足を容認しつつ、あくまでも荒廃する村々における本百姓体制の再建をめざしたものである。幕府は、旧里帰農奨励令に先だって、天明八年(一七八八)に出稼ぎ奉公禁止令を発し、陸奥(むつ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の三ヵ国からの出稼ぎをきびしく禁止した。この三ヵ国がとくに規制の対象となったのは、村々の荒廃現象が顕著であったからである。
このとき信州は、雪国であるため冬から翌年の春まで農業以外の稼ぎがないので他国へ奉公に出ざるをえないこと、もちろん雪が消えれば帰国して農業に取りかかるので、本業の農業の障害にはならないこと、そして奉公中は日々の食糧に困ることはなく、手にした給金は暮らし方の足しになることを理由に、出稼ぎ奉公禁止の対象外となっている。事実、高井郡東江部村(中野市)では、江戸での奉公人の帰国を待ってその給金を手当てに年貢を皆済させてほしいとの訴状が出されているほど、北信地方では出稼ぎ奉公が生活のなかに組みこまれていたのである(寛延三年「皆済御吟味ニ付御訴状」『須坂高校旧蔵山田理右衛門家文書』県立歴史館寄託)。
つづく天保改革期には、天保十四年(一八四三)に人返し令を発令し、寛政改革期とは違って、江戸へ流入している村出身者を半ば強制的に帰村させようと試みた。当時、日本は天保の大飢饉におそわれ、甲斐(かい)国(山梨県)天保一揆(いっき)や三河(みかわ)国(愛知県)加茂騒動といった一国規模での広域的な百姓一揆を経験し、さらには大坂では大塩平八郎の乱が起こるなど、対外的危機の進行とともに内憂外患(ないゆうがいかん)の時代を迎えていた。幕府は江戸へ出稼ぎに出たまま下層社会に滞留する人びとの対処に頭を悩ませていた。そうした下層民は「其日稼(そのひかせ)ぎの者」といわれ、ときに打ちこわしなどの騒動を起こすものとして厄介な存在であった。しかし長いあいだ江戸に滞留しているうちに所帯を構えた者を、強制的に帰村させるのは不可能に近く、江戸に出てきて日の浅い、妻子のない一季奉公の者を早々に帰村させるのが精一杯であった。そして年季奉公の月限や年限をきびしくし、江戸の町方人別に入れることを禁止した以外に、これといって方策はなかった。市域では、天保十四年七月に千田村(芹田)が、江戸奉公人の帰郷を求めた幕府にたいし、請書(うけしょ)を村中連判で差し上げている(『市誌』⑬一六四)。