江戸出稼ぎ奉公人の実態

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ここで市域の村々における奉公人の実態をみておきたい。まず、文政二年(一八一九)塩崎知行所今井村(川中島町)の奉公人である。同村の「奉公人書上帳(かきあげちょう)」(『市誌』⑬一九九)によると、全部で一五人の奉公人が確認できる。内訳は、江戸の武家屋敷に奉公する者が一二人、江戸町方に奉公する者が三人いる。彼らの年齢は、一四歳の六郎次倅(せがれ)友次郎がもっとも若く、最年長は六三歳の竹松父仁助である。年齢の分布は、一〇代が二人、二〇代が五人、三〇代が六人、四〇代が三人、五〇代が二人、そして六〇代が二人である。いずれも青年から壮年、老年にいたる男性ばかりである。この書上帳は、四月に作成されているところからみると、記載者は出代わりをすることなく江戸での奉公を継続させたものたちであろう。このころまでの奉公人は、二〇代前後で奉公にあがり、壮年時代を長期間江戸で奉公し、老年になると郷里にもどって農業に従事し、代わりに息子が奉公に出るというサイクルをもっていた(大口勇次郎『徳川時代の社会史』)。


写真13 文政2年(1819)今井村他所奉公人名前帳
  (『小林家文書』長野市博蔵)

 時代がくだり、松代領の南長池村(古牧)では、天保十三年(一八四二)に、松代藩の家中奉公・一季奉公人・他所奉公人の別に調査がおこなわれている(山田正子「近世後期松代藩の社会政策」)。松代藩では、天保七年(一八三六)に他所奉公の規制が緩和され、領内には三人の奉公人取締役が任命されて、奉公人書上帳を作成したのである。

 それによると、松代瀋の家中奉公が二人(一人は江戸屋敷、一人は松代城下)、一季奉公は九人(うち男が三人、女が六人)で、いずれも南長池村内もしくは近隣の村々に奉公に出ている。他所奉公人は全部で三三人あり、そのうち江戸での奉公人が二一人ともっとも多い。同村の江戸奉公人の特徴は、武家奉公人がわずか一人で、ほかはすべて町方の商家への商売見習い奉公であることである。つぎに多いのは、上野(こうずけ)国沼田城下(群馬県沼田市)への奉公で七人いる。しかも全員が酒造奉公である。残りは、中野代官所支配長沼村(長沼)へ二人、須坂領土屋坊(どやぼう)村(朝陽屋島)に二人、そして善光寺大門町へ一人となっている。南長池村における武家奉公の少なさは、時代がくだるにつれて武家奉公が忌避されたという一般的状況に適合しているといえよう。また酒造稼ぎのような寒仕込みのときに短期集中的に労働力を必要とする奉公がみられるのは、当該時期には農閑期の短期的な奉公が主体になっていたことをよく示している。