善光寺門前は、両御門前および八町(はっちょう)とよばれる町方とからなりたっていた。両御門前のうち、横沢町は大勧進に、立(たつ)町は大本願にそれぞれ直属し、町八町は、大門町・桜小路(狐池(きつねいけ)・上西之門町をふくむ)・後町・西町(西之門町・阿弥陀院(あみだいん)町・天神宮町をふくむ)・東町(東之門町・武井をふくむ)・横町・北之門町(善光寺本堂造営以降、新町(しんまち)・伊勢町にかわる)・岩石(がんぜき)町の八町であった。善光寺門前には古くから十二斎市が立ち、商業活動が盛んであった。幕末期の状況ではあるが、表3に、嘉永元年(一八四八)における西町の諸商い展開状況を示した。類似した商い・職人をふくめて八〇をこえる種類が書き上げられているが、全体では、在方へのせり売り、賃糸稼(かせ)ぎ、古着商い、紙・麻商い、日雇い稼ぎ、小作稼ぎなどにたずさわる者が多かったといえる。また、綿打ち、大工、紺染め、塗師(ぬし)、左官(さかん)をはじめとする職人も多数存在した。なお、呉服商い、材木商い、太物(ふともの)(綿・麻織物)商い、穀物商いなどは店舗(てんぽ)を構(かま)えての営業であったと思われる。
元治(げんじ)二年(慶応元年、一八六五)の横沢町「軒並(のきなみ)家業御改帳」によると、同町では西町にくらべて職人の割合が高かった。これは、二六六軒のうち鳶(とび)職の者が四〇軒を占めていたためであるが、ほかに大工一二軒・鍛冶(かじ)職五軒、菓子職五軒、綿打ち七軒をはじめとする多くの職人がいた。「軒並家業御改帳」には、全部で五六種類の職種が書き上げられているが、鳶職のつぎに従事者が多いのは賃稼ぎ三四軒であり、在方へのせり売り三三軒、小間物商い一三軒とつづいた(『県史』⑦一二六三)。
このように、善光寺門前町には、さまざまな商いを営む多くの商人・職人がいたが、仲間議定や鑑札下付(かふ)願いなどから、断片的にその人数を把握することができる。たとえば、安政二年(一八五五)に善光寺町の木綿商人は松代藩にたいして商い鑑札の下付を願いでているが、ここから松代領にかかわる善光寺町の木綿商人の人数が大門町一三人、西町三〇人、東町六人、後町八人、岩石町一一人、新町一二人、横町九人、桜小路一四人、横沢町二人の合計一〇五人であったこと(ほかに善光寺領七瀬村(芹田)の一人がいた)がわかる(『県史』⑦一三四七)。さらに、文久三年(一八六三)の「穀屋仲間規定書」(更北青木島町 露木彦右衛門蔵)からは、善光寺町の穀屋は大門町に二人、西町に七人(うち阿弥陀院町一人)、東町に一三人(うち東之門町二人・武井一人)、岩石町に一人、新町・伊勢町に各一人、横町に一人、桜小路に四人、横沢町に四人(うち荒町二人)いたことが判明する。そして、ここに西後町(後町村)や問御所村(鶴賀問御所町)など善光寺町続き地の穀屋計一六人と穀車仲間一四人を加えると、総勢六四人となるのである。
善光寺門前町は、基本的には商人と職人の町であった。しかし、表3でもわかるように、耕作(百姓)・小作稼ぎの者も混在していた。そして、彼らは、松代藩預り所権堂村(鶴賀権堂町)・同栗田村(芹田)、松代領妻科村(妻科)といった、善光寺町の町続き地村々へ出作(でさく・でづくり)をおこなっていたのである。
商業的農業の発達や貨幣経済の浸透などによって、善光寺町の商業は近世中期以降いちだんと発展した。また、これにともなって善光寺町の町続き地でも街道沿いを中心に町場化がすすみ、諸商いが展開することになった。善光寺町の町続き地のようすをみてみよう。
問御所村は、はじめ幕府領であったが、寛政四年(一七九二)以降椎谷(しいや)領となった。同年の村明細帳によると、村高一八八石余(うち社領二石、田高一四一石余・畑高四三石余・畑成(はたなり)高六斗余)、家数一七五軒(本百姓四六軒、借屋百姓五軒、水呑(みずのみ)一二二軒)、人数六五七人(男三〇二人、女三四四人、僧四人)であり、村高のうち高一〇七石四斗余が同村の本百姓・借屋百姓耕作高、高七八石八斗余が善光寺町・権堂村・西後町三ヵ所からの入作(いりさく)高であった。また、問御所村から栗田村・妻科村・七瀬村三ヵ村へ出作をおこなう者もいた(出作高二二石九斗余)(『久保田家文書』県立歴史館蔵)。問御所村における入作高は村高の四二パーセントであったが、他町村からの入作は善光寺町続き地に共通のものであった。正徳三年(一七一三)の七瀬村における入作高は善光寺八町の町民を中心に六〇パーセントに(『市誌』③四章一節)、また、嘉永三年の権堂村では六八パーセントにそれぞれ達していたのであった(「永井可保日記」永井達雄蔵)。
また、同村明細帳には、酒造屋が二軒、質屋札が三枚あり(同年は質屋は休業)、男は「縄(なわ)・馬の沓(くつ)作り、少々商いをもつかまつり、または日雇いをとり」、女は「木綿布・足袋(たび)などつかまつり渡世(とせい)いたし候」と記される。ここから、多くの人びとが耕作のあいまに余業として諸商いに従事していたようすをみることができる。さらに、同村で穀物を商い、幕末期には酒造業も営んだ久保田新兵衛が文化十年(一八一三)十月に藩に提出した「穀物商取り締まり請書」には、「当村の儀は、借家・小商い渡世つかまつり候」とある(『県史』⑦二〇四四)。同村では、天明二年(一七八二)に吉郎次が中之条代官所から質屋鑑札を下付(かふ)されるなど、一八世紀末ころより街道沿いを中心にいちだんと諸商いが盛んになった。そして、化政期(一八〇四~三〇)から天保期(一八三〇~四四)ころには鋳掛屋(いかけや)渡世、水車渡世(穀車、綿実(めんじつ)車)、木綿商い、塩商いをはじめ多くの諸商いが展開していたのであった。なお、同村の人口は、安政五年には八二四人(男四〇一人・女四一八人・出家一人・禅門二人など)であったから(『久保田家文書』県立歴史館蔵)、寛政四年からの六六年間で一六七人(率にして一・二五倍)増加したことがわかる。
問御所村以外でも、善光寺町続き地の松代領妻科村・同三輪村(三輪)・同中之御所村(椎谷領と分け郷、中御所)・同吉田村(吉田)などは、幕末期には、質商い、塩商い、穀屋商い、木綿商い、絞油(こうゆ)商い、揚酒振売(あげざけふりうり)・日売(ひうり)商い、大工・屋根葺(ふ)き・左官(さかん)・桶工(おけく)・石工(いしく)・髪結(かみゆい)・唐弓(からゆみ)打ち(綿打ち)などをはじめとする各種諸職人など、じつにさまざまな諸商いが展開していたのであった(『松代真田家文書』国立史料館蔵、『県史』⑦一三二八)。