善光寺町続き地における諸商いの広範な展開は、善光寺八町の商業機能をおびやかすことになり、両者のあいだで争いが起こった。天保五年には、善光寺町の問屋などが市場衰微を理由として幕府寺社奉行間部下総守詮勝(まなべしもふさのかみあきかつ)のもとに駆込訴(かけこみそ)をおこない、その後さらに老中松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)にたいしても駕籠訴(かごそ)をおこなうという事件が発生した。訴えの内容は、①善光寺八町の人びとの暮らしは、もっぱら市場交易の助成をもってなりたっている。しかし、近年善光寺町続きの三輪村、﨤目(そりめ)村(三輪)、吉田村、妻科村の一部である後町村(西後町)・新田組(新田町)・石堂組(南・北石堂町)の者たちが、農業をやめ、暖簾(のれん)をかけて手広く商売をするので善光寺町が衰退する。②同じく松代領の水内郡鬼無里(きなさ)村(鬼無里村)・笹平村(七二会)・栃原村(戸隠村)、更級郡原村(川中島町)などが勝手に新規の市をたて暖簾がけ商いをしているが、これは善光寺町商業の障害となる。③吉田村の十太夫ほか三人が「穀留人(こくどめにん)」と称して四ヵ所に穀留番所を建てて、善光寺町への穀物の移入をさまたげている。彼らの行為は、村の穀屋たちとなれあい穀物を安値で買い占めるという私欲から出たものである。④弥十郎など六人が松代藩に取りいって「木綿改(あらため)会所」をたて、鑑札を所持して木綿の買い占めをするので善光寺町へ木綿が集まらない、というものであった(『長野市史』)。
江戸上野寛永寺(林光院・常照院)が仲裁にはいって翌六年に内済(ないさい)が成立したが、その内容はつぎのようなものであった。前記の①については、善光寺町続き地の者が長暖簾を掛けて問屋同然の商売をすることは禁止する。②については、善光寺町の支障となるような市はやめる。③については、穀留番所は廃止する。また、善光寺町続き地の穀物商と善光寺町の穀問屋は、ともに出買(でがい)・居買(いがい)・せり買などを禁止する。町続き地の穀物商は、穀物を善光寺穀問屋から仕入れることとする。さらに、穀屋仲間に加入していない者については、以後穀商売を差し止める。④については、「木綿改会所」は差し止める。また、木綿の駄売りについては、鑑札を所持して売買しているので問題としない。なお、このほか善光寺町続きの前記村々(三輪村・﨤目村・吉田村・後町村・新田組・石堂組)、および善光寺町から丹波島村(更北丹波島)通り筋の村々では、塩商売において駄売り(俵・叺(かます)での販売)はしない、などが取り決められた(『県史』⑦一三二八)。
この済口(すみくち)証文によって善光寺町続き地では塩の駄売りが禁止されることになった。しかし、それでは商売がなりたたないとして、翌年には後町村の塩商人たちが駄売りを認めるよう善光寺大門町市場取り締まり瀧澤助之丞(たきざわすけのじょう)・善光寺町問屋小野善兵衛らに掛けあい、善光寺町が拒否の回答をすると、松代藩職(しょく)奉行所に訴えでるという事件がおこった(『今井家文書』県立歴史館蔵)。天保八年時点では、塩商人は後町村に七人、権堂村・問御所村に各一人がいたが、駄売り禁止の徹底は商売に大きな影響をあたえるものであったことがわかる。その後、同八年十月に、善光寺町がわが大門町問屋場で塩荷一駄につき口銭(こうせん)三〇文を徴収し、さらに駄売りの出荷を差し止めるという強硬手段をとって、両者の対立はいっそう深まった(『長野史料』信濃教育博物館蔵)。けっきょく、この一件は、寺領役人立ち会いのもと関係者が松代町に呼びだされて審議(しんぎ)がすすめられ、同八年十二月に後町村・権堂村・問御所村などでも駄売りが認められることで示談が成立した(『今井家文書』県立歴史館蔵)。