松代城下町の成立のようすや町人が負担する役儀(やくぎ)の内容などについてはすでにみた(『市誌』③四章二節)。ここでは、町方および「町外町(ちょうがいちょう)」とよばれる地域における商業活動の展開状況をみよう。
町方は、「町八町(まちはっちょう)」とよばれる馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋町・伊勢町・中町・荒神(こうじん)町・肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町からなるが、町方の商業活動全体を把握することはむずかしい。そこで、荒神町を例に、同町における商業の展開状況をみることにする。荒神町は、寛文十一年(一六七一)家数五九軒(本家(ほんや)・合家(あいや)とも)(『県史』⑦六八八)、安政七年(万延元年、一八六〇)七五軒(男一六六人・女一七九人)で(『市誌』⑬二三七)、軒数の比較では、八町のほぼ中位である。また、町は、北国往還松代通り(松代街道)に沿っており、城下町から須坂方面への出口に位置していた。表4は、文化四年(一八〇七)と元治(げんじ)二年(慶応元年、一八六五)における家業の種類などを示したものである。ここから、荒神町では文化四年時点においても耕作に従事している者が一三軒(全体の一七パーセント)あったことがわかる。しかし、元治二年になると五軒(兼業をふくめると八軒、全体の六~一〇パーセント)に減少し、かわって糸・綿商いに従事する者が増加している。また、陶器(とうき)商い、陶器焼職などが新規に登場する。文政期のはじめころ荒神町に陶器窯(かま)が設けられ、陶器製造(松代焼)が始まった影響といえる。なお、町内には足軽や城番などの下級武士も居住していた。
松代町には穀物問屋がなく不便であるとして、文政三年(一八二〇)十月、伊勢町・中町・荒神町・肴町・鍛冶町の五ヵ町惣代から穀問屋設立願いが藩に提出された。願書では、伊勢町・中町・荒神町に各一ヵ所を設置したいとしている(『伴家文書』長野市博寄託)。天保四年七月には、「先年穀問屋御免札を頂戴していた荒神町の佐吉が、質商売および蚕種商売を始めたために穀商売を休んでいる」として処分をうけ、詫(わ)び証文を提出しているので、願いは聞き届けられていたことがわかる(時期は不明)。また、同年十月には町方穀屋惣代として荒神町佐吉のほか紺屋町穀問屋庄助・吉郎右衛門らの名前がみえているので、穀問屋は紺屋町にも置かれていたのである(同前文書)。
松代町では、町人町である「町八町」とは別に、藩から「町外町」として掌握されていた地域があった。「町外町」は、「町八町」内外や、その周辺部に広がっていたが、そのおもな場所は、①町続き地、②武家町・武家屋敷地、③寺社境内地などであった。そして、文政四年時点では八八ヵ所が「町外町」とされていた(『県史』⑦一二四)。なお、「町外町」とされた地が、その後町方に編入されたり、新たに設定されたりした。八田嘉右衛門の西木町抱(かかえ)屋敷は、「御賑(にぎわ)しくあいなり候につき」として、文政七年に伊勢町に組み入れられたが、そのさいには、地所は五町(伊勢町・中町・荒神町・肴町・鍛冶町)役人、年寄、検断立ち会いのもとで町方に引き渡され、以後役銀を伊勢町名主に納入することとされたのであった(『松代八田家文書』国立史料館蔵)。
「町外町」のひとつである新馬喰町は、城下町の西の入口に位置する馬喰町が膨張してできた町続き地であり、北国往還松代通りに沿って清野村(松代町)の一部が町場化した。弘化二年(一八四五)の新馬喰町「家業書上」(新馬喰町共有)によると、足軽・同心などが三〇軒、小作一一軒、小商い六軒、木綿商売一軒、穀屋商売一軒、酒造商売一軒、大工職二軒、桶(おけ)屋職一軒、指物(さしもの)商売(家具製造・販売)一軒、紺屋職一軒、御湯殿番一軒があった。穀商売や酒造業に従事する者が一部にみられるものの、おもに下層武士や小作農・小商人・職人が居住していたことがわかる。そして、武家町や寺社境内の「町外町」の場合も、ほぼ同様の状況であったとみてよいであろう。酒造・質・揚酒(あげざけ)・桶工渡世冥加金(みょうがきん)上納人別帳によると、元治二年には、「町外町」に酒造一人、質屋二人、揚酒商い一五人(うち日売り一人)、桶職人七人がいたことが判明する(『松代真田家文書』国立史料館蔵)。