伊勢町八田家の来歴

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真田家一〇万石の城下町松代に居住し、松代藩の御用商人として活躍した伊勢町八田家の来歴を、おもに『松代八田家文書目録』(その一)解題に依拠しつつみておこう。

 伊勢町初代孫左衛門(重以)は、本家木町八田家三代長左衛門(庸重)の二男であり、宝永四年(一七〇七)六月に分家し、同六年六月に伊勢町に屋敷を構えて営業を開始した 。なお、本家の祖喜兵衛(宗重)は武田の家臣として甲州(山梨県)から松代に移住したと伝えられる。移住後は、呉服商・酒造業を営んで財をなし、藩と結びついて発展をとげ、二代平三郎(綱重)は「真田隼人正(はやとのしょう)様(二代藩主信政の弟、信重)御知行元〆役(もとじめやく)」を、また、三代長左衛門(庸重)は町年寄役を勤めるなどした。

 分家独立した孫左衛門は、独立と同時に町年寄に就任し、以後、伊勢町八田家の当主は代々町年寄役をつとめることになった。享保十一年(一七二六)四月、孫左衛門は御用金才覚(さいかく)の功績により羽織拝領、御目見(おめみえ)を仰せつけられ、翌十二年十二月には三〇人扶持(ぶち)を給された。そして、孫左衛門が享保十年から寛保(かんぽう)二年(一七四二)までの一八年間に上納した御用金は二一万六六〇〇両余、籾(もみ)四六万四八〇〇俵余にのぼったといわれている。

 二代嘉助(芳茲)は延享四年(一七四七)に家督を継ぐが、寛延三年(一七五〇)には御用金返済の代わりとして二〇人扶持を加増されている。嘉助は、宝暦六年(一七五六)に病身を理由に町年寄役辞退を願いでるとともに、子鉄治郎への家督相続を遺言しているが、そのさい所持家屋敷一二ヵ所のうち六ヵ所を養子嘉右衛門に譲って本家を再興させることを求めた(本家木町八田家は享保二十年以降断絶していたが、ここに再興された)。

 三代鉄治郎は宝暦六年に家督を相続したが、父嘉助のときに加増された二〇人扶持は召し上げとなった。また、初代孫左衛門以来御用金上納の利息と引き替えに認められていた田畑年貢二九五俵の納入免除の措置も廃止された。これは当時の家老恩田木工(もく)を中心に実施、推進されていた藩政改革の一環であった。なお、鉄治郎は同八年十一月に一七歳になり、初代の名を襲名して孫左衛門(以親)を名乗った。そして、孫左衛門は、寛政十年(一七九八)、享和二年(一八〇二)にそれぞれ三〇〇両を献金して、「給人格御勝手御用役」を仰せつけられ、郡奉行支配となった。

 四代嘉右衛門(知義)は享和三年二月家督を相続したが、父同様に三〇人扶持を支給され、「給人格御勝手御用役」を命じられた(給人格となったことにより、嘉右衛門は「御町人別除帳(じょちょう)」扱いとなった)。そして、嘉右衛門は、文化期には多額の御用金を命じられ、これを調達、上納したことにより文化十年(一八一三)に五人扶持を加増されている。また、文政七年(一八二四)には「給人永格」をあたえられ、給人としての地位を永久に保証された。さらに、嘉右衛門は文化十三年五月には産物御用掛、翌年三月には川船運送方御用、文政七年十一月には社倉調役(しゃそうしらべやく)、同九年九月には糸会所取締役、天保四年(一八三三)には産物会所(糸会所を改組したもの)頭取(とうどり)などさまざまな藩の役職に就任した。

 五代嘉助(知則)は嘉永二年(一八四九)二月に家督を相続した。そして、藩から三〇人扶持を給され、御勝手御用役や産物会所御用をつとめたが、同四年十一月に死去した。翌五年正月に六代慎蔵(知道)があとを継ぎ、父と同じ処遇、役職を歴任し、明治維新を迎えることになった。なお、同家は明治二年(一八六九)十二月に商法掌(しょう)となり、同三年閏(うるう)十月に士族に列せられた。また、廃藩置県後は少属補助商法方となり、同十二年七月より翌十三年三月まで第六三国立銀行頭取をつとめるなどした。


写真15 現在の八田家 (松代伊勢町)