文化・文政年間(一八〇四~三〇)の八田家の経営は、酒造方(酒蔵・酒店)、質店、土地(地主)経営、利貸し経営(藩士への貸し付けなどをふくむ)などであった。土地経営についてみると、このころ八田家は伊勢町・鏡屋町の居屋敷以外に、東・西木町抱(かかえ)屋敷、中町抱屋敷、田町抱屋敷、荒神町抱屋敷(焼き物窯(かま)場・細工所をふくむ)など数ヵ所の抱屋敷を町内に所持しており、抱屋敷は貸家にして家賃収入を得ていたのであった。また、田畑・山林も所持しており、ここからは小作料収入や材木の売却収入があった。
営業部門においては、これまで営業の中心であった呉服店は利益が減少したためであろうか、文化六年(一八〇九)二月に増田徳左衛門に九〇〇両(無利息、一〇年賦)で売却して、営業を一時中止した(『県史』⑦一〇二七)。また、酒造方も宝暦・明和期にくらべて営業規模の縮小がみられた。醤油店は、文化十三年中町と西木町(錦町)に開設されているが、この両店の経営は松井和七に請け負わせている。そして、同様に松井に経営をゆだねたものに越後赤倉温泉(新潟県妙高高原町)、同所穀店、松代町の中町・(西)木町(錦町)陶器店などがあった。文化十三年、八田は赤倉温泉開発のために一〇〇〇両ともいわれる大金を投資して、担保がわりに同温泉での営業権を獲得した。しかし、見込みどおりの利潤は生まれず、文政六年(一八二三)ころに経営から手を引いている。
赤倉穀店は文政二年の開店であるが、小規模のうえに、同四年正月には仕入れ金として一一〇両三分二朱余を質店から借り入れるなど、営業はかならずしも順調でなかった。陶器店は、中町陶器店が文化十四年、木町陶器店は翌十五年の開店であったが、木町店には陶器店のほかに曲(ま)げ物などを扱う梅店、木具方、紙を扱う桑紙店などが付属していた。そして、同店には「塗物方(ぬりものかた)問屋」(椀(わん)類・挽物(ひきもの)問屋)札があたえられていた。しかし、木町店も営業不振が原因で、文政九年までには閉店した。また、醤油店も掛け売りが増加し、集金もはかばかしくなく、八田家から商売休止を申し渡される状況であった(『県史』⑦一〇四六)。
八田家は、文政八年に藩の産物方から陶器窯(かま)を引きうけて、施設を希望者に貸しつけていた。史料には「荒神町陶器の儀、先年産物方御手放しのみぎり伊勢町伝兵衛依頼窯場引き払い相ならず、同人より荒神町へ示談の上、渡世人へ相渡し、年来焼き物致し来たる」と記される(「陶器窯の儀につき伺いほか一件書類写」、『松代八田家文書』国立史料館蔵)。この窯場のあった荒神町抱屋敷は、文化年間には松代藩の川船会所が置かれたところであり、八田家は川船会所掛り(川船運送方御用)をつとめていた。文政八年当時荒神町抱屋敷には居屋敷一棟、土蔵一棟、細工所一棟、裏居家(うらおりや)一棟、焼き物窯七窯(屋根つき)、素焼き窯一窯(同)があって、八田家は、これらを喜惣治なる者に金一一両二分銀一〇匁で貸しつけたのであった。ちなみに、同所借り受け人は、その後天保十年ころ荒神町の伝兵衛に代わった(一ヵ年二〇両)。そして、弘化二年における規模は、陶器窯九窯、素焼き窯一窯であり、この年から養蚕業への煙害補償の意味合いで、陶器窯について四度窯焚(た)きまでは回数にかかわりなく一年に四両ずつ、五度焚きの場合は一両増しの趣意金を荒神町にたいして差しだすことになった。その後、嘉永五年には抱屋敷・陶器窯を西寺尾村久右衛門へ売却する話がすすむものの不調に終わり、文久二年には借り受け人は荒神町の与兵衛に交替した。
このように、文化・文政期においては、営業部門のほとんどは経営が不振であった。ところが、これとは対照的に規模の拡大がみられたのが利貸し経営部門であった。「棚卸勘定帳」によれば、家政機関であるとともに各店々の統轄機関でもあった「内方(うちかた)」がおこなった貸し付け金(「内方貸付金」)は、文化元年に三〇〇〇両余であったものが十年後には五倍以上の一万六〇〇〇両余にまで増加しているのである。しかし、八田家においては、この期は余剰金の蓄積をあらわす「内方有金」はほとんど増加していないのであり、小作籾の取り立て高も文化期以降天保期まで減少傾向を示すのである。しかも他方では、貸し付け金の増加にあわせるように、松代藩の内借方からの借用をふくめた借り入れ金が七〇〇両余から九〇〇〇両余へと急激に膨張しているのである。こうした事実は、利貸し経営は利子をふくめて表面上は拡大しているものの、その回転・回収は決して順調ではなかったことを物語っているといえる(吉永昭「城下町御用商人の性格について」)。
八田家の利貸し経営と土地経営の関係の一端をみてみよう。文化十三年十二月に、八田家は、岩村田藩(佐久市)の財政窮乏にたいして、岩村田領内の佐久郡岩村田町・上平尾村・下平尾村・長土呂(ながとろ)村(佐久市)、市村(小諸市)の年貢を担保に二九〇〇両を貸しつけた。しかし、翌年には早くも利息の返済が滞(とどこお)っており、十五年四月には佐久・小県両郡内の岩村田領二四ヵ村すべての年貢を担保とするとの規定書が改めて作成されている。この貸し付け元利金の一部は村々の有力百姓によって肩代わり返済されたが、同領内の御用達や百姓にたいしては、田畑を担保にさらに新たな貸し付けもなされたのであった。文政末年には、こうした貸し付け金のほとんどが焦(こ)げついているが、岩村田役所への届け書によると、天保三年三月に質流れ地となったのは岩村田領一町六ヵ村で高二二八石九斗余にのぼっている(その質代金は二七〇〇両)。なお、質流れ地となったあとも、今度はその土地の小作料が滞納されるようになった。このため、天保十一年二月に、八田家は岩村田領の一町六ヵ村二〇人を相手に小作米六三七俵三斗余、籾三二〇二俵一斗余の支払いを求めて寺社奉行へ提訴するにいたるのである。
八田家は、岩村田藩以外にも、文化年間には奥殿(おくとの)(田野口)藩(南佐久郡臼田町)にたいして領内田地を担保に貸し付けをおこなっていた(『市誌』⑬二九三)。また、飯山藩にたいしても三〇〇〇両を貸しつけており、文政七年には、借用証文が飯山領の御用達であった蓮(はちす)村(飯山市)の三人、静間(しずま)村(同)の一人の借り入れ証文に書きかえられている。しかし、この貸し付けも返済が滞り、八田家は、天保三年に、貸金返済(担保である質入れ地の受け取り)を求めて寺社奉行に提訴し、翌年には吟味が開始された。
以上のように、文化・文政期の八田家の経営は営業部門、土地経営部門ともに不振であった。そこで、こうした状況を克服し、経営の再建をはかるため、四代当主嘉右衛門(知義)は緊縮策を柱とする家政改革に乗りだす。